2007年春の巨大ロボットアニメ概観――『エヴァンゲリオン』を尺度として

 この春に新しく始まったアニメを概観してみると、巨大ロボットものの作品がいくつかあるのが目につく。巨大ロボットもののアニメが大量に作られたのは、70年代後半から80年代にかけてであるが、現在においても、そうした流れの末に、巨大ロボットアニメが作られていると言っていいだろう。しかし、その文脈を正確に把握することは、かなり難しい。70年代から80年代にかけて作られた巨大ロボットアニメが何を成し遂げたのか、ということを正確に把握することは、かなり難しい。現在の僕には、その大雑把な流れを描く能力しかないので、少なくとも、今回は、『新世紀エヴァンゲリオン』以後(ということは、つまり、2000年代)ということを特に考慮に入れて、新しく始まったいくつかのアニメ作品を位置づけてみたい。


 そもそも、巨大ロボットものは、ヒーローものの一種だったはずなのだが、いつの間にか、大作志向の作品とほとんど同義になった。確かに、善と悪の闘いという旧来のヒーローものの枠組で言えば、巨大ロボットものが大状況を描き続けてきたということには、おかしなところはない。だが、いつの間にか、巨大ロボットものは、全世界のあらゆる問題を包括するような大文字の作品、それが発表されたときの時代性というものを体現するような大きなジャンルになっていった(クラシック音楽における交響曲、文学における長編小説のように)。従って、今日、巨大ロボットアニメが作られる場合には、かなりの意気込みを持って、作品が作られているように思えるわけである。


 しかしながら、現在という時代の困難なところは、そのような大きな話を生み出すことが非常に難しくなっているということである。『エヴァンゲリオン』のアクロバティックなところは、全世界規模の大きな話と個人レベルの小さな話とを結びつけたところにあったと言える。このような短絡こそが、いわゆるセカイ系の物語の地平を開いたと言えるが、しかし、逆に言えば、現在という時代は、セカイ系的なトリックを用いなければ、大きな物語を語ることが非常に難しくなっている時代だと言えるだろう。


 この点で、2000年代を代表する巨大ロボットアニメは、『機動戦士ガンダムSEED』である。この作品が示していることは、現在という時代に大きな話を語ろうとするとどのような困難にぶち当たるか、どのような失敗をもたらすことになるのか、ということである*1


 今年、『エヴァンゲリオン』の劇場作品が再び作られることになったわけだが、まさに、そのような時期に、『エヴァンゲリオン』がもたらしたものを改めて考えてみるのは悪いことではないだろう。これから、『エヴァンゲリオン』をひとつの尺度として、現在放送されている巨大ロボットアニメについて考えてみようと思っているのだが、そこで問題になっていることは、単純に、それらの作品が『エヴァ』を越えたか越えないかということを決定することではない。そうではなくて、現在放送されている非常に多くの作品を結びつけるためのひとつの地図を作ろうと思っているわけである。面白いかつまらないかというのとは別に、アニメ作品を整理するための僕なりの基準を、部分的にでも、提示してみようと思っているわけである。


 さて、まずは、大作志向という点について、巨大ロボットアニメの世界観の大きさということから出発してみよう。『エヴァンゲリオン』の物語に見出せるもの、それは、世界の始まりと終わりである。世界の始まりというのは、人類の始まりと言い換えてもいいのだが、そこには、神話への参照を見出すことができる(聖書への参照、アダムとエヴァの物語)。つまり、そこで問われていることとは、なぜ世界はこのように出来上がっているのかということであり、さらには、なぜわれわれはここにいるのかということである。このように起源の問いを問うことによって出発点に戻ること、それこそが、まさに、人類補完計画という形で示されていたものであり、そんなふうにして出発点に戻ることによって、世界を引き受け直す(世界を意味づけし直す)ということが、そこで試みられていたことだろう。


 今期のアニメ『ヒロイック・エイジ』の野心的なところは、まさに、このような根源的な問いを前面に置いた点に見出せるだろう。そこで、作品の土台を構成しているのは、『エヴァ』と同様、現代における神話としてのSFというモチーフである。未来の出来事を語るはずのSFが、過去の出来事を語るはずの神話という形態の下に提示されているということ。このような視野の広さは、『スター・ウォーズ』の冒頭の一節、「遠い昔、遥か彼方の銀河で」という言葉に凝縮されていることだろう。そこに見出されるのは、一種の円環的な構造である。つまり、それは、未来の物語であると同時に起源の物語でもある、ということである(最近の作品で、このような円環的な構造をもった作品として、『うたわれるもの』の名前を上げることができるだろう)。『ヒロイック・エイジ』において、SF的な装いの下で示されているのは、まさしく、古代の神々の闘いではないだろうか?


 しかし、『ヒロイック・エイジ』は、起源の物語であると同時に、ひとつの危機の物語、終末の物語でもある。故郷を追われた人類というテーマは、決して新しいテーマではなく、むしろ、かなり古いものだと言える。そのことは、偶然にも今期に再びアニメ化された『地球へ…』が示している。


 望郷という主題がサブカルチャーにおいて持っている意味を考えることもなかなか興味深いことである。『地球へ…』のマンガは、70年代後半に描かれたわけだが、70年代を代表する二大SFアニメ、『宇宙戦艦ヤマト』と『機動戦士ガンダム』も、同様に、望郷をテーマにしている作品だと言えるだろう(これら二つの作品において、望郷の念が如実に示されている有名な台詞とは、それぞれ、その作品のラストに出てくる台詞、沖田十三の「何もかも皆懐かしい」とアムロの「まだ僕には帰れるところがあるんだ」である)。また、さらには、手塚治虫の『火の鳥 望郷編』が描かれたのも70年代だった。この点については、これ以上、ここでは、深めることはしないが、このようなテーマの類似性・同時性は、非常に示唆に富むことである*2


 『新世紀エヴァンゲリオン』は、ひとつの終末を描いていたが、これもまた、70年代から現在まで、様々なサブカルチャー作品において、繰り返し描かれ続けてきたモチーフあるいは風景である。今期のアニメでは『キスダム』が、そのような終末感を最も感じさせる作品だと言える。『キスダム』が今後どのような物語を展開していくか分からないが、同じサテライトが制作したアニメ『創聖のアクエリオン』では、まさしく、神話(神々との闘い)がモチーフとなり、そこで問題になっていたことも、ひとつの終わりであると同時に、ひとつの始まりでもあった。つまるところ、そこで問題になっていたことは再生だったと言える。


 このような再生をテーマにした作品は非常に多くある(2000年代の作品では『ラーゼフォン』)。例えば、最も代表的なのが『伝説巨神イデオン』である。『機動戦士ガンダム』よりも『イデオン』のほうが、巨大ロボットものの世界観の広大さを決定づけたと言えそうであるが、まさに、その影響は『エヴァ』に如実に見て取ることができる。しかしながら、『エヴァンゲリオン』のラストシーン(シンジとアスカが浜辺で寝ている)を、新たな始まりとして考えることは非常に難しいだろう(僕は、このラストシーンを、『無敵超人ザンボット3』のラストシーンと比較して考えるべきではないかと思っている)。そこには突然の切断がある(スタッフロールが最後に来ることもなく、「終劇」の文字と共にスクリーンの幕が突然閉まる)。未来の物語を仄めかすような後日談がそこには存在しないのである。この点で、『エヴァ』は、通常の再生の物語にひとつの捻りを加えたと言えるだろう。つまり、そこにあるのは、始まりではなく、決定的な終わり(フィクションとしての作品世界の終わりということだろうか?)なのである*3


 巨大ロボットものは、このように、非常に広大な話を提示するための舞台であるわけだが、同時に、小さな話を語るための題材にもなってきた。そして、そのような流れは、ここ最近になって生じたわけではなく、明らかに、以前から存在していた。その点で、決定的な作品と言えるのが『機動警察パトレイバー』である。果たして、これを、巨大ロボものと言えるかどうかという点から、ひとつの問題であるが、『パトレイバー』のように、ロボットのサイズをひとまわりかふたまわり小さくすることによって、ストーリー的にも話を小さくすることが可能になったと言えるだろう(このようなロボットのサイズの縮小化は、敵の存在の縮小化と同時並行的であると言えるだろう)。そして、このことは、現在においては、例えば、『コードギアス』のような作品に言えることであり(『コードギアス』は巨大ロボットアニメという印象をほとんど抱かせない)、また、今期のアニメでは『アイドルマスター XENOGLOSSIA』に言えることである。


 『アイドルマスター』は、現在のところ、『パトレイバー』に非常に近い作品だと言える。つまり、それは、いわゆる「職業倫理もの」の範疇に入れることができる作品だと言えるだろう(『プラネテス』がそうであるような)。こうした側面は、『エヴァ』に関して言えば、まったくないとは言えないが、やはり、非常に希薄だろう。この種の作品において問題になっているのは、ある種の自己実現である。自己実現がテーマになったアニメはいくつもあるが、そうしたテーマと巨大ロボとは、やはり、奇妙な組み合わせだと言える。


 ロボットの大きさということで言えば、今期のアニメ『ぼくらの』に出てくる全長500メートルの巨大ロボは、あまりにも大きすぎるということで、それまでの巨大ロボものの大きな物語とは一線を画していると言える。つまり、そのロボットの巨大さと反比例するかのように、物語はまったく個人的なレベルに集約していると言えるだろう。つまるところ、『ぼくらの』は、『なるたる』と同様、明白なセカイ系作品であり、『エヴァンゲリオン』が提示した14才の問題を継承していると言える。14才の問題とは、つまるところ、子供と大人との狭間の時期の問題であり、14才という年齢は、様々な問題を、子供のように無視することもできないし、大人のように冷静に対処することもできない、そのような年齢であると言えるだろう(さらには、「自分は何者なのか」といったような実存的な問題に直面する時期だとも言える)。この点で、そこには、個人レベルでの「世界の終わり」が出現するのであり、『ぼくらの』や『なるたる』には、そのような行き詰まった世界での息の詰まるような体験が描かれている作品だと言える。


 少年や少女が巨大ロボットに乗って敵と闘うという、よくよく考えれば何の必然性もない設定に、最初に疑問を提示した作品は、やはり、『機動戦士ガンダム』だったと言えるだろう。なぜなら、『ガンダム』においては、少年や少女たちが敵と闘わざるをえなくなる状況がまず描かれるからであり、これは、つまり、制作者がそうしたことに意識的だったということだろう。ロボットに乗るか乗らないかという問題を最初に提起したのも、おそらく『ガンダム』だろう。この問題とは、言い換えれば、ある社会的なポジションを引き受けるか否かという問題である。そして、『ガンダム』以後の作品で、この点に最もこだわった作品が『エヴァ』だったと言える。


 『エヴァ』という作品においては、終始、この乗るか乗らないかという問題が提起されることになる。乗っては降り、乗っては降り、ということが繰り返される。これは、まさに、巨大ロボットアニメの前提を覆すような問いだと言えるだろう。つまり、なぜ、巨大なロボットに乗って、敵と闘うというようなアニメを自分は作らねばならないのか、ということがそこでは問われているのである。


 今期のアニメ『機神大戦ギガンティック・フォーミュラ』では、この乗るか乗らないかという問題が最初のほうで提起されるが、しかし、すぐに、あっさりと解決してしまう(少なくとも現在のところまでは)。『ギガンティック・フォーミュラ』という作品は、この点で、『エヴァ』で提示される、様々な煮え切らない問題を、非常にすっきりと合理的に解決した作品だと言える。『エヴァ』に出てくる大人たち(あるいは世界そのものと言ってもいいが)は不合理なものを子供たちに強いてくるが、『ギガンティック・フォーミュラ』に出てくる大人たちは、契約や手続きといったものを重んじる、社会的ないしは合理的な存在だと言える。しかしながら、こんなふうに、すっきりと解決してしまうことで失われるものも非常に大きいことだろう。もちろん、このことは、『エヴァ』と『ギガンティック・フォーミュラ』とでは、それぞれ、その作品の目指すところが異なっているということを考慮に入れる必要があるが、『ギガンティック・フォーミュラ』が『エヴァ』に対するひとつの回答であると考えるのであれば、それは、少し性急な回答だったと言わざるをえない。


 『アイドルマスター』や『ギガンティック・フォーミュラ』に見出すことができる、学校文化と巨大ロボットとの接続という側面にも少し触れておこう。学校の地下に巨大ロボットの基地があるという発想。こうしたことは、『エヴァ』についても、クラスメイトがみんなパイロット候補生であるという設定などに見出すことができる。学校生活という日常生活が、一瞬にして、外敵との戦闘という非日常に変わるということ。これは、例えば、『絶対無敵ライジンオー』を始めとするエルドランシリーズについて言えることであり、その源流を探れば、もっと昔の作品にまで行き着くことだろう(2000年代の作品では『蒼穹のファフナー』がそうした作品だった)。


 注目すべきは、この短絡である。『エヴァ』で描かれていたように、あたかも学校帰りに何か習い事に行くかのように、制服を着たまま、巨大ロボットの基地に入っていくということ。こうした短絡の最たる例(2000年代の現代的な例)は、やはり、『ほしのこえ』である。男友達との学校帰りのシーンから、いきなり、宇宙空間で巨大ロボットに乗っているシーンへと移行するシーケンスがあるが、そこで、奇妙なことに、主人公の女の子は、制服を着たまま、ロボットに乗っている。そのことの理由は、まさに、このような短絡がもたらすリアリティに探し求めるべきだろう。つまり、そこで提示されている非日常的な世界は、まさに、学校生活という日常生活の裏面に他ならないということ、学校生活の外というよりも、むしろ、学校生活の延長線上に、そのような非日常の場所があるということ、そうしたことがひとつのリアリティをもたらしているわけである(こうしたことは『最終兵器彼女』についても言えることである)。


 さて、これで、今期の巨大ロボットアニメに関して、五つの作品に言及したわけだが、最後に、『天元突破グレンラガン』について語ってみよう。この作品は、同じガイナックスの作品でありながら、『エヴァ』に最も似ていない作品だと言える。『グレンラガン』は、ある種の原点回帰を目指した作品のようだが、それは、単純に、『ガンダム』以前の巨大ロボアニメ、つまり、リアルロボットアニメではなく、スーパーロボットアニメへの回帰ということではないだろう(スーパーロボットアニメへの回帰を目指した作品なら、すでにいくつも存在する)。そうではなくて、この作品で目指されているのは、巨大ロボアニメの歴史の中では、あまり花咲かなかった可能性への回帰、まだ十分にその可能性を組み尽くしてはいない源泉への回帰ということである。


 例えば、『グレンラガン』に出てくるロボットの形状から、すぐに、『魔神英雄伝ワタル』のことが思い出されないだろうか? あるいは、同様に、そのロボットの形状から、2000年代の作品では、『GADGUARD』のことが思い出されないだろうか? そして、そのような淵源を辿っていくと、ひとつには、やはり、『鉄人28号』に行き着くように思われる。こうした流れがどのような意味を持っているのかということは、現在の僕にはよく分からないが、そのような新しい潮流の発見へと『グレンラガン』という作品が導いてくれるのではないかと期待しているわけである。


 最初にも言ったが、今年、『エヴァ』の新しい劇場作品が公開されるわけだが、まさに、こうした時期に、巨大ロボットアニメについて考察するのは、非常に有意義なことであるよう思われる。また、『エヴァ』そのものについても、10年前に、非常に様々なことが語られたわけだが、そのような言説の遺産を今こそ思い出してみる時期かも知れない。いわゆる「エヴァ本」の中に、どれだけ、現在においても読むに耐える本があるのか分からないが、現在という時代を考えるためにも(われわれの置かれている状況というものを考えるためにも)、そうした本を再読するいい時期なのかも知れない。この点については、今後の課題としておきたい。

*1:この点についての詳細は、僕が以前に書いた次のエントリーを参照してほしい。「関節の外れた世界、二つのリアリティ」。

*2:望郷のテーマについては、次のエントリーを参照してほしい。「『耳をすませば』について(11)」。また、『火の鳥 望郷編』に関しては次のエントリーを参照してほしい。「母親以上に母親的なもの」。

*3:エヴァンゲリオン』のラストシーンについては、上記の「『耳をすませば』について(11)」のエントリーと次のエントリーを参照してほしい。「アダムとイブ」。