現在から過去へ、そして、過去から未来へ――視点の変化の問題

 前回は、『まなびストレート』を中心にして、日常と非日常との分節の問題を取り扱った。『まなびストレート』は、一見したところ、非日常を取り扱った作品だと言える(非日常的な経験としての「わくわく」や「きらきら」をもたらすものとしての文化祭)。しかしながら、常に非日常に留まることを良しとせず(『うる星やつら』などとは違って)、むしろ、ある種の移行を重視している点で(特に最終回で描かれていたような学校文化からの移行)、日常に根を置いている作品だと言えるだろう。


 さて、ここで、日常と非日常との分節の問題を改めて整理するにあたって、集団と個人という視点を導入することにしたい。われわれの生が、いったいどれだけ集団的なものであり、いったいどれだけ個人的なものであるかを決定することは難しいことである。生活というものは、個人的なものでありながら、やはり、同時に、集団的なものでもある。むしろ、集団的なものであるというところにこそ、生の分節化の問題が潜んでいると言える。


 例えば、ゴールデンウィークという休みの時は、集団のレベルでの休みの時であって、それが個人のレベルにおいても休みの時であるかどうかは分からない。そもそも、そこで問題になっている「休む」ということが、いったいどのような意味を持っているかは、まったく判明ではないだろう(最も一般的な意味は、労働していないということであるが)。


 『ハルヒ』、『うる星やつら2』、『まなび』といった作品で描かれていた学園祭という節目の時は、まさしく、学校という集団の制度がもたらしたものに他ならない。われわれの生を分節化しているものの多くは、このような集団のレベルでの介入であるだろう(成人式や定年など)。


 このような集団のレベルにおける生の分節化には回収されないような個人的なレベルでの生の分節化を考えることは可能だろう。それは、まさに、個人史を語るときに中心になってくるような出来事であるが(しかし、それが常に意識されているものであるかどうかは分からない)、そうした出来事が集団のレベルでの出来事と重なることもあるだろうし、社会的な事件と重なることもあるだろう。とりわけ、ここで重要になってくるのが、過去の出来事、いわゆる思い出であり、そうした思い出が個人の生全体を秩序づけるときに重要な役割を果たすのではないかと思われるのである。


 さて、その点で、過去に戻るということが重要な意味を持ってくると思われるのである。実際に過去に戻ることはできないだろうが、過去の状況と同じ状況に立つことはできるだろう。このことがノスタルジーという言葉の厳密な意味であるように僕には思われるのである。


 この点で、すぐに思い出されるのは、童謡の『赤とんぼ』である(三木露風作詞、山田耕筰作曲)。ある感覚的なもの(「夕焼小焼の赤とんぼ」)が過去の記憶を想起させるということはよくあることであるが、しかし、そこにおいて重要なのは、単に過去の記憶を思い出したということではなく、過去の状況と同じ状況に立ったということ、そこにおいて、主体的なポジションが変化したということではないだろうか?


 『赤とんぼ』の歌で語られていることは、感覚的なものの連鎖である。まず、夕暮れ時に赤とんぼを見ているという現在の視覚的な情報があり(「とまっているよ、竿の先」)、それが、すぐに、小さい頃に誰かに背負われて赤とんぼを見たという、その背負われた感覚が想起される(「負われて見たのは、いつの日か」)。二番の歌詞に出てくる桑の実のエピソードも、重要なのは、その感覚的な記憶だろう(「小籠に摘んだは、まぼろしか」)。実際の記憶はおぼろげだが、桑の実を摘んだ手の感覚だけは残っているわけである。


 そして、この感覚の記憶は、三番の歌詞に出てくる「姐や」(子守娘のことらしい)に辿りつく。おそらく、この記憶は、子守をされていたときの記憶であるのだから、かなり小さいときのものであり、ずっと忘れ去られていたものだったのだろう。また、この姐やのことも、ずっと忘れていたのだろう。そうした一連の記憶が、赤とんぼを見たときに、突然蘇ってきたわけである。


 こうしたことを単なる懐かしさという言葉でまとめることはできない。なぜ、このとき、そのような記憶が想起されたのかということを問題にすべきである。つまり、ここで想定されるのは、忘れていた記憶を思い出すことを可能にさせた何らかの変化があったということである。これまで世界を眺めていた場所とは違った場所から世界を眺めるようになったということである。


 この童謡に出てくる赤とんぼは、この前問題にした新海誠の『秒速5センチメートル』に出てくる桜の花びらと同種のものと考えることができるかも知れない。つまり、竿の先にとまっている赤とんぼは、ある種の同一性を指し示しているわけである。それは、世界が以前と同じものであることを保証している原点である。言い換えれば、そこには、何らかの移行や変化があるわけだが、そうした移行や変化を測定するためには何らかの座標軸が必要なわけである。


 ある種のセカイ系作品(『ファンタジックチルドレン』や『ラーゼフォン』)が描いていたのも、このような意味での過去に戻ることである。しかし、同じ過去に戻ることを扱った作品でも、アニメの『時をかける少女』は、やや異なった問題を提起している作品だと言える。『時をかける少女』においては、(『ファンタジックチルドレン』や『ラーゼフォン』のような作品が描いているような)永遠の魂や過去の状況の再演ということが問題になっているのではない。そこで問題になっていることは、単純に、過去に戻ってやり直すということ、現在立ち現われている世界とは別の世界を、その可能性のうちから、出現させるということである。


 こうしたことは、例えば、『ノエイン』のような作品で問題になっていたことである。『ノエイン』で問題になっていたこと、それは、終始、「もし、あのとき、あんなふうに行動していなかったら(あのような出来事が起こっていなかったら)、現在はもっと違ったものになっていただろう」というような、ある種の後悔の念である。ここで前提となっていることは、現在とは異なる別の現在もありうるということである。言ってみれば、世界の潜在的な複数性がここでは前提になっているのである。


 このような複数性が提示されるときに問題になること、それは、複数ある道のうちのどれを進むのが最もいいのか、ということである。今年出版された東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』という本で問題になっていたことも、このような複数性の構造だろう。この本の中でも、『時をかける少女』の名前が一箇所だけ出てくるが、その文脈で問題になっていたことも、一種の選択の問題である。つまり、過去に戻って現在をやり直すことは可能であるが、しかし、その結果、どの世界に生きるかを自分自身で選択しなければならなくなるという選択の問題がそこで新たに浮上することになるわけである(例えば、『時かけ』のアニメにおいても強調されていたように、あらゆる人間にとって良い世界は存在せず、どの世界も常に誰かにとっては悪い世界であるとすれば、いったい誰にとって悪い世界が最も良い世界なのかを選ばなくてはならなくなる)。


 ここにおいて、終わりの問題が、東浩紀が想定しているようなゲーム(美少女ゲーム)における複数の終わり(トゥルーエンドやバッドエンド)の問題が出てくることになる。この終わりは物語の終わりと言ってもいいかも知れないが、そのような終わりを設定して初めて、ある種の選択に対して良いとか悪いとか言うことができるのであり、もしそのような終わりが明確でないとすれば、そのような選択の問題も常に宙吊りにされることだろう。


 まさしく、この点こそが、『時をかける少女』において扱われていた未来の問題だと言える。つまり、この作品には、何かを宙吊りにしているところがあるわけである。この点こそが、単に過去だけを問題にしているような作品と一線を画すところだと思われるが、この点を、『時をかける少女』とは別の作品に言及することで、明確にしてみよう。その作品とは、くらもちふさこのマンガ『おばけたんご』である。


 この作品は、90年代初頭に描かれているという点で、90年代作品の方向性を印づけている作品だと言えるかも知れない。それはともかくとして、僕がこの作品で注目したいのは、この作品がある種の結末を宙吊りにしている点である。少女マンガの王道的展開からすれば、主人公の女の子が憧れの男子と恋人同士になることが物語の終わりを印づけることになるはずである(実際、くらもちふさこのデビュー作『メガネちゃんのひとりごと』はそのような王道的な作品である)。そうした観点からすると、この『おばけたんご』という作品は、二重にも三重にも捻りを加えた作品だと言うことができる。


 まず、この作品では、主人公の女の子(憧子)と憧れの男子(陸朗)とは、最初から恋人同士(フィアンセ)である。問題は、まさに、このような近さ、ありえない設定にあると言える。少女マンガ的な欲望はすでに満足させられている。その点で必要になってくるのは、ある種の異物、物語を駆動させるために、完結したカップルの間に入ってくる第三の人物である。


 こうしたことは、男性向けのラブコメディー作品についても言えることであるが、重要なのは、カップルの間の距離である。カップルの距離が近くなりすぎたり、遠くなりすぎたりしないことが重要なのである。いったい何にとって重要なのかと言えば、それは、まさしく、物語にとってであり、カップルの成立が物語の終わりを意味するからである(そのような文脈からすれば、近年の少女マンガは、カップルの成立以後が常に視野に入りこんでいると言える)。


 『おばけたんご』における異物とは、端午という名のもうひとりのフィアンセであり、彼の存在が決定的なのは、彼がすでに死んでいるということである。死んだ端午の場所に陸朗がやってくるわけだが、この二重性が憧子にとっては常に問題であると言える。つまり、そこには、常に、「もし端午が生きていたのなら」という反実仮想の入りこむ余地があるからである。この点で、この物語の後半は、こうした反実仮想に捧げられることとなる。


 注目すべきは、そのような反実仮想から戻ってきたあと、物語が突然終わるところである。実際の道行きと仮定された道行き、この二つが提示されたあと、それでは、そのような比較から、どのような行動に出るのかということが描かれていないわけである。このような結末の宙吊りこそが、くらもちふさこの加えた決定的な捻りだと言えるだろう。


 ここに立ち現われてくるのが未来という視点である。未来という視点を入れてくるのであれば、どの世界が良くて、どの世界が悪いのかということは常に宙吊りにされることだろう。実際の世界はひとつしかないのだから、過去にこだわることなく、未来の可能性に賭けるべきだ、というようなことをここで言いたいわけではない。むしろ、反実仮想の世界とは、実際の世界の内側だけに留まっていては見えなかったものを見させてくれるためのひとつの通路だと言うことができる。ここには、ノスタルジーの場合と同様、一種の視点の変化があるわけである。


 さて、そうなってくると、問題になるのは、いったい、「私」はどこにいるのか、ということである。複数の世界を同時に比較検討できるような、そのような透明な視点は存在しないことだろう。ここから再び、場所の問題に帰ることができるように思う。しかし、その前に、もう少し、日常と非日常との間の節目の時を問題にしてみることにしたい。とりわけ、(学園もの作品に描かれる)学校行事にどのような構造的意味(切れ目)を見出すことができるのか、ということを考えてみたい。