二者関係から三者関係へ

 前回は、現代のサブカルチャー作品を問題にするための視点として、場所というものを持ち出したわけだが、この場所という問題は、結局のところ、そこでの人間関係をどのように考えるかということに集約される問題設定である。しかしながら、集団としての人間関係を扱うというだけでは、非常に漠然としていると言わねばならないだろう。そこで、まず、ひとつの視点として、二者関係から三者関係へ、ということを考えてみたいと思う。つまり、ある人間関係について、それが二者関係か三者関係か、というふうに問うことによって、問題を整理してみようと思うのである。


 ここで、二者とか三者とか言ったとしても、二人とか三人とかいうような人数が問題ではない。人数が問題ではなく、そこでの人間関係がどのように構成されているのか、ということが問題なのである。


 セカイ系作品でことさらに問題になるのは、やはり、二者関係であるだろう。しかしながら、視点を少し変えてみれば、そこにおいては、ある種の一者が問題になっているとも言える。つまり、そこにおいては、関係以上に、一者という究極的な存在が問題になっているのである。


 例えば、『新世紀エヴァンゲリオン』における人類補完計画が目指していることも一者への統合だろうし、エヴァに取りこまれるシンジというエピソードも同様のことを指し示していることだろう。まさしく、『エヴァ』においては、一者か二者関係か、ということが問題になっていたと言える。そこでの二者関係とは、つまるところ、敵対関係のことである。敵か味方か、あれかこれか。敵でなければ味方、味方でなければ敵という二分法がことさらに問題になっていた。


 このような『エヴァ』の観点からすれば、『最終兵器彼女』のラストシーンにも、不気味なものを見出すことができるだろう。つまり、そこでも、まさに、二者関係から一者へ、ということが問題になっていたわけだが、こんなふうに、二人がひとつになるということは、「私」の死というものを招き寄せることにならないだろうか? つまり、そこで行なわれることは、殺すか殺されるかということであり、一者への統合を目指すということは、(『イデオン』のラストシーンのように)すべての存在の死ということを必然的に含んでいることにならないのだろうか?


 ここに見出されるのは、一種の狂信的な傾向性であるだろう。それは、集団自殺を行なうような宗教活動の領域に属するものである。一者への志向は、自己否定を伴うと言うことができるだろう。


 敵対関係に基礎を置く二者関係は、やはり、こうしたものとは異なることだろう。今日において、二者関係がとりわけ問題になるのは、競争という形においてである。つまり、勝ちと負けが明確になるのが、二者関係である。その点で言えば、バトルロワイアルという形式は、そこに人が何人いようとも、常に二者関係が問題になっていると言えるだろう。


 バトルロワイアルにおいては、中間の項目が欠如している。つまり、自分以外の存在はすべて敵になる、というのがその形式である。バトルロワイアルという形式を採用している作品はたくさんあるが、そうした作品を概観して思うことは、そこで課題となっていることが、いかに、この二者関係を回避するか、ということである。二者関係というのは、最終的には、行き詰まりにしか人を導くことはないだろう。そこで目指されることを究極まで推し進めれば、それは「すべてを我が手に」ということであるだろうし、世界征服という誇大妄想的な野望へと接続されることだろう。


 二者関係において欠如しているものとは他者だと言えるだろう。他者の否定こそが、二者関係を動機づけていると言える。それでは、三者関係というものは、どのように描き出すことができるだろうか? この点については、まだかなりの部分のところを留保せざるをえないと言わねばならない。というのは、三者関係は、二者関係の彼岸という形で、理想的に提示されている部分があるからである。


 セカイ系に戻って、二者関係の行き詰まりについて、もう少しよく考えてみよう。セカイ系作品で問題になっていることとは、私たちは自分が本当にいるべき場所にいない、ということだろう。カップルが離れ離れになっている状態がまさにそうであるし、『ファンタジックチルドレン』で描かれていたような望郷というテーマ、故郷喪失というテーマもそうしたものであることだろう。つまるところ、こんなふうに、われわれがその本来性に至ることを邪魔しているものがいる、ということがそこでは問題になっているわけである。この悪の存在との対決ということが、セカイ系作品の隠れた主題となっていると言えるだろう。つまるところ、ここにこそ、敵対的な二者関係が見出されるわけである。


 セカイ系作品においては、われわれが一者へと至ることを邪魔する存在がいるという形で、二者関係が問題にされていたわけだが、二者関係と三者関係が同時に問題になっている作品もあることだろう。例えば、『NANA』であるが、この作品においては、究極的には、二者関係をいかにして三者関係へと移行させるか、ということが課題となっていると言えるだろう。


 『NANA』という作品は、二者関係が非常に顕著な作品だと言える。そこでは、常に、何かと何かが対立させられたり、対照させられたりしている。二人のナナという設定がそもそもそうであるし、二つのバンドというのもそうであるだろう。そこにおいては、誰がどこに所属するのか、ということが重要な問題として提起されている。つまり、あれかこれか、敵か味方か、ということが、そこでは重要な価値基準になっているのであり、所有に関して言えば、私たちのものか、あいつらのものかということが問題になっているわけである。


 二者関係という図式ほど、世界を描き出すにあたって、単純明快なものはないだろう。だとすれば、そこから三者関係の道を探ることは、非常に難しいことだと言える。つまり、単純な「敵か味方か」という図式から逃れることができたとしても、すぐに、その図式に舞い戻ってしまう可能性がある、ということである。『吉永さん家のガーゴイル』においては、それまで敵であったキャラクターが味方になるという敵対性の除去という(共同体の)システムを見出すことができたが、しかし、そんなふうに、敵とか味方という言葉を使っている時点では、問題は何も変わっていないと言えるだろう。


 『ハチミツとクローバー』や『げんしけん』といった作品を見たときに、やはり、そこに一種の価値観の変化というものを見出さずにはいられない。そこで問題になっていることを非常に簡単に言ってしまえば、ある個人にとってもっとも大事なものは何かということだろう。競争的二者関係においてはほとんど価値を持たないもの、それを、僕は以前、部分的なものと呼んだわけだが、そうしたものが今日、問われているものだと言えるだろう。そして、この点が、『NANA』において揺れているところだと言える。そこにおいては、勝つか負けるかということが、容易には飛び越えることのできない高い壁として聳え立っていて、部分的なものは、言ってみれば、回顧的な視点の中で、再発見されるという形においてしか見出されないのである。


 おそらく、他者というものをどのように考えるのかということが、重要な点になってくることだろう。この点で言えば、『めぞん一刻』のような作品で問題になっていることは、まず第一に、他者の侵入だと言えるだろう。今日の社会システムの方向性とは、いかにして、この他者の侵入というストレスを減らすかというものになっていると言える。例えば、コンビニの店員の重要性とは、そこでの店員との関係が、商品の売買以上の意味を持たないというところにあることだろう。


 しかしながら、実社会とは逆に、多くのサブカルチャー作品においては、様々な出会いが描かれていると言える。とりわけ、ギャルゲー作品の周辺に作られているような作品の場合、出会いというものは欠かせない要素だと言える。この点で言えば、いわゆるギャルゲー作品の主人公は、それまで他者であった様々な女性たちが過度に介入してくるのを寛容にも受け入れることができる許容範囲の広い場所だと言うことができるだろう。


 いわゆる押しかけ女房タイプの他者の侵入ほど不快なものはないのではないか? 例えば、最近の作品で言えば、『夜明け前より瑠璃色な Crescent Love』がそういう作品だろうが、月の王女が一般庶民の家にホームステイするという、この展開ほど人を不快にさせるものはないだろう。物語は、ここから次に、月の王女との恋愛関係へと進んでいくわけだが、こうした展開には、やはり、飛躍が存在すると言わねばならないだろう。そこで問われるべきことは、いったい、どの時点で他者を受け入れることができたのか、ということである。


 もっと分かりやすい例を出すとすれば、いったい、そこでの作品世界が成立させられるためには、誰が排除されていなければならないのか、と問うことが必要である。例えば、『苺ましまろ』において、ネットの情報によると、この作品には当初、伊藤姉妹の兄がいたそうだが、この兄の存在の消去こそ、まさに、他者の存在の消去に他ならないことだろう。『苺ましまろ』の作品世界において、どのような他者の存在がいれば、われわれが不快になるか、ということを想像することは容易であることだろう。それは、ほとんど完成された五人のキャラクターの関係を破壊するような存在である。


 二者関係を超えていくことは非常に困難な課題だと言える。しかしながら、事態を単純に考えないためには、これは必要不可欠な作業であるだろう。人間関係において何が争点となっているのかということをよく考えてみる必要があることだろう。人間関係の基本的な要素とは何か? こうしたことを考えていくために、いくつかの作品をこれから見ていくことにしたい。