競争的関係と家族的関係

 前回は、「二者関係から三者関係へ」というふうに、人間関係を類型化して整理することで、現在のサブカルチャー作品において問題になっていることの一側面を強調した。そこにおいて、とりわけ、関心を引く人間関係の形式とは、バトルロワイアルであり、他者との関係が、そこで、どのようなものになっているのかと問うことは非常に重要なことであるように思える。


 バトルロワイアルという形式を持ち出す作品において問題になっていることは、ひとつのジレンマだと言える。それは、『新世紀エヴァンゲリオン』でも言及されていた「ヤマアラシのジレンマ」に似たものであり、つまり、敵対的な他者と共存していくことの矛盾がそこでは問題になっているのである。そこで想定されている他者とは、自己の利益を最大限に満足させるために行動しているような他者であり、そのような他者に対して攻撃性を緩めることは、自己の利益を大幅に損なうことに繋がるわけである。


 自己の利益か、他者の利益か。このような二者択一状態においては、他者と連帯することはほとんど不可能だと言えるだろう。「利益」ということを言い出すのであれば、他者と連帯することができるのは、自己の利益と他者の利益とが同時に満たされるときだけだからである。


 このような敵対的な人間関係とは別種の人間関係を想定することも、もちろん可能であるだろう。それは、例えば、村落共同体における人間関係、いわゆる「互酬性」によって繋がりを持つような人間関係であるが、このような人間関係が、最近のサブカルチャー作品においては、特に問題になっているように思える。例えば、『N・H・Kにようこそ!』では、まさに、そのような人間関係が特に問われていると言えるだろう。


 『N・H・Kにようこそ!』に見出すことができる人間関係は、逆説的な人間関係だと言える。例えば、それは、ひきこもることによって形成することができた人間関係というような逆説である。また、同様の逆説は、『NHK』のひとつのエピソードで描かれていたような、自殺を共通目的にすることによって繋がりを持つことができた人間関係にも見出すことができるだろう。


 集団で自殺をすることの矛盾について、ここで少し指摘しておきたい。その最大の矛盾点は、人間は、その死を、最終的には、個人的なものとしてしか経験できないにも関わらず、集団自殺では(これは心中についても言えることだが)、あたかも、一緒に死ぬことによって、絶対的な孤独を回避することができるかのように見える、というところにある。錯覚的であるが、これが、集団自殺という消極的(に見える)行為の積極的な側面だと言えるだろう。


 さて、ひきこもりの問題を、こんなふうにして、人間関係の問題として提起することには、それなりの正当性があるように思える。というのは、同じように、ひきこもりを問題にした作品である『ローゼンメイデン』において、まさに、バトルロワイアルという人間関係の形式が問題になっているからである。ここから、ひきこもりとバトルロワイアルとの関連性を次のように述べることができるだろう。すなわち、ひきこもりとは、他者との競争的な関係の結果、他者との繋がりを作り出すことができずに、様々な点で孤立してしまった状態を指す、というふうに。ひきこもりのうちに何らかのモラトリアムの次元が見出せるとすれば、それは、他者との競争的な関係に陥るまでの猶予期間、競争の場に出て行くまでの猶予期間だと考えることができるだろう(『ローゼンメイデン』におけるアリスゲームの引き延ばしが何を目指しているのか、ということを想起すべきだろう)。


 もちろん、バトルロワイアルという形式は極限状態であり、他者との人間関係においては、例外的な状態だと言えるだろう。しかしながら、そもそも、他者を、どうして自分とは敵対しない存在として受け入れることができるのか、ということは、ある意味、非常に謎めいていると言えるだろう。つまり、そもそも、競争的な他者ではないような他者を成立させる余地が、いったい、どこに存在するのだろうか?


 まさに、ここにおいて、家族という、これもまた、非常に謎めいた関係性が立ち現われてくることになる。近年のサブカルチャー作品を見ていて、特に興味深い点は、家族という関係性は、血の繋がりがあるときよりも、それがないときのほうがずっと、その人間関係を親密にするものとして定義されているところにある。例えば、興味深い作品として、『R.O.D -THE TV-』の名前を上げることができるだろう。このアニメに登場する三人姉妹は、まずは、血の繋がっていないもの同士の姉妹として立ち現われてくる。彼女たちには、姉妹の契りを結んだ共通の記憶があり、それが、家族というフィクションを支えるための根拠となっているのである。そして、その後、話が展開するに連れて、新たな事実がもたらされるのだが、それは、彼女たちが姉妹の契りをしたその記憶そのものが捏造されたものだったという事実である。ここにおいて、彼女たちが家族であることを支える根拠は失われてしまうわけだが、むしろ、そんなふうにして、家族という関係性のフィクショナルな性格が明らかにされることによって、不思議なことに、この姉妹の関係性は強まることになるのである。つまり、捏造された記憶を共有していたという点で、彼女たちは、家族というフィクションを積極的に意味あるものとして引き受けることができるようになるのである。


 共同生活のあるところには家族の影を見出すことができる、ということを言うことはできるだろう。しかし、そこでの人間関係というものをどのように位置づけることができるのかという問いに答えるためには、さらに一歩、踏み込んで考えてみる必要があることだろう。


 『めぞん一刻』の一刻館が、単なるアパートである以上に、ひとつの家として提示されていることは間違いないだろう。アパートの一室がひとつの家となっているわけではなく、一刻館全体がひとつの家となっているということ、つまり、アパートの住人がひとつの家の家族であるかのように描かれているということ。このことが、今日の非常に多くの作品に、ほとんど検討されることのないまま、踏襲されている前提となっていると言えるだろう。つまるところ、ひとつ屋根の下に住んでいれば、そこで、その人たちは必然的に家族を形成することになる、というわけである。


 しかしながら、もちろん、建物の構造上の特徴を見逃すことはできない。一刻館では、靴を脱いで上がる共同の玄関がひとつあり、廊下に沿って、ひとつひとつ部屋がある、という建物の作りになっている。これは、現在主流だと思われるアパートの構造、ひとつひとつの部屋が建物の外部に通じているという構造とは、決定的に異なると言わねばならない。つまり、一刻館では、部屋と玄関までの間の空間もまた、「うちの中」だと言えるのである(同様の建物の構造は、『まほらば 〜Heartful days』についても見出すことができるが、まさに、このことは、この作品が『めぞん一刻』から何を踏襲したのか、ということが顕著に示されている例だと言えるだろう)。


 加えてまた、近年のサブカルチャー作品にしばしば見出すことができる、一緒に食卓を囲むというノスタルジックな光景に加えられたアクセントにも注目すべきだろう。『ローゼンメイデン』がまさにそのような作品であるが、同様のことは、アニメ『Fate/stay night』についても言える。『Fate』も『ローゼン』も、共に、バトルロワイアル状況を背景にしながら、このような食卓を囲む光景が描かれていることには、競争的な関係と家族的な関係との間に、密接な関係があることを顕著に示していると言えないだろうか?


 こうした点から見ても、『NANA』という作品は、やはり、非常に興味深い作品だと言える。そこで絶えず問題にされているものも、ひとつの家であると言えないだろうか? 単なるルームシェアリングが問題なのではなく、家族的関係を取り結ぶということが、そこでは問題になっていないだろうか? 家なき子である大崎ナナにとって、家族的関係は、競争的関係の彼岸に位置づけられる関係であるが、しかしながら、その彼女自身が、あらゆる人間関係を競争的関係に帰結させてしまうことによって、家族的関係をいつまでも手の届かないものにさせている、と言うことはできないだろうか?


 共同生活が家族の問題を必然的に提起するという点では、いくつかの巨大ロボットアニメにも注目すべきであろう。そこに出てくる戦艦や空母は、共同生活の場として、家という観点をもたらすことになる。『機動戦士ガンダム』がその典型的な作品であるが、例えば、そこで、アムロホワイトベースから逃げ出すシーンは、一種の家出として考えることができるだろう(そして、この家出というテーマは、『エヴァ』や『エウレカセブン』においても踏襲されているテーマであり、そして、つまるところ、そのことは、これらの作品においても、家族というものが問題になっていることの証左であると言えるだろう)。


 しかしながら、家族という関係ほど、今日、疑わしいものはない、ということは、やはり、言っておくべきことだろう。家族的関係が、様々なサブカルチャー作品において、一種、理想的な関係として描かれているのは、他方において、家族間の深刻なディスコミュニケーションがあるからではないだろうか? 連日のニュースで、家族同士の殺し合いが報道されている状況にあっては、家族的関係を無前提に肯定するわけにはいかないだろう。そして、同じことは、地域共同体についても言えることである。


 それゆえ、重要なことは、分析をもっと進めて、いわゆる家族的な関係において機能している諸要素を抽出することである。そこでまず検討したいのが、他者の侵入という要素である。そもそも、なぜ、この他者という存在は、これほどまでに、人を不快にさせるのだろうか? 今日のサブカルチャー作品では、この不快な他者をどのように扱っているのだろうか? この点について、次回、考えてみることにしたい。