部分的な悪としての不快な他者の侵入――実存の問題をどこで決着させるのか?

 前回は、競争的関係と家族的関係とを対立させることによって、いくつかのサブカルチャー作品において問題になっていることを整理してみた。今日のサブカルチャー作品で問題になっていることを端的に述べれば、それは、未だに失われたことのない故郷を再発見することだと言えるかも知れない。一度喪失してしまった故郷に再び戻るということが問題なのではなく、失われたことなど一度もない故郷に戻ることが問題となっているのである。それは、言い換えれば、家族の発見であったり、家の発見であったりするだろう。しかしながら、そこでの家や家族というものは、失われたものとしてではなく、理想的な場所として、探求の対象となっていると言える。


 他者との敵対的な対立が無化される場所。これは理想的な場所ではないだろうか? 『吉永さん家のガーゴイル』に見出すことができるもの、それは、一種の許しではないだろうか? いったい、何が許されるのかということが問題であるが、そこで許されるものとは、他者の罪だと言えるだろう。不快な他者が共同体のうちに侵入し、そこに一種の混乱をもたらす。その罪を許す場所がある、ということである。


 さらには、不快な他者が存在していることそれ自体を許す、と言うこともできるだろう。このような敵対的な関係の除去が可能になるためのひとつの条件、もっとも容易な条件とは、新しい敵対性が生み出されることであるだろう。これこそが、週刊少年ジャンプのモットーである「努力・友情・勝利」の「友情」が持つ意味だと思われるが、つまりは、そこで築かれる連帯とは、共通の敵の出現に対する連帯なわけである。


 さて、今日、われわれの生の手綱を握っているのは、われわれの生活に侵入してくる他者である、というふうに断言するのは言いすぎだろうか? 個々人が、いったい、どのような使命を胸に抱いて、日々の生活を送っているのかは分からないが、不快な他者を排除することに、その人生を捧げている人は、おそらく、非常にたくさんいることだろう。例えば、「あいつのせいで、俺の人生は狂わされた」という形で出現してくるのが、ここで問題にしている他者である。「あいつがいなければ、俺の人生はもっと違っていたものになっただろう」というような形で、人生の障害物として立ち現われてくる他者の存在を、ここでは問題にしたいのである。


 いったい、この他者はどこにいるのだろうか? 同じ学校や同じ職場にいると言う人や、アパートの隣に住んでいると言う人もいるだろうが、同じ家族の中に、家族の一員として存在していると言う人もたくさんいることだろう。まさに、この点から、連日のように報道される家族内での殺し合いの意味を、部分的にでも、理解することが可能になるだろう。そして、さらには、このような分断された家族像と、いくつかのサブカルチャー作品において理想的なものとして提出されている家族像との間の距離を測ることもできるだろう。つまり、理想的な家族関係においては、不快な他者の侵入が完全に除外されていて、そこには、ある種の充実があるのだ。この充実は、何かがあることによってもたらされる充実というよりも、何かがないことによってもたらされる充実だと言えるだろう。つまり、そこには、不足がないのである。


 不快な他者の排除という点で非常に興味深い作品として、古谷実のマンガ『ヒミズ』の名前を上げることができるだろう。この作品に見出すことができる確信とは、人生を、それが通常辿るべき軌道から逸らした何かがある、ということである。この作品では、「普通」であることが強調されているが、人を普通にさせない何かがあり、その何かが悪の存在として想定されているのである。しかしながら、この作品で、結論的に示されているのは、絶対的な悪の不在とでも呼ぶべき事態である。あるいは、悪を生み出す悪を生み出す悪……という無限に続く連鎖を辿っていくことの困難である。いずれにしろ、悪の存在を見出すための探求の旅は失敗に終わる。


 さらに、『ヒミズ』においては、共通の善とでも呼ぶべき観念が問題になっていることも見逃すことはできないだろう。絶対的な悪と絶対的な善との対立に代わるものがあるとすれば、それは、共通の善と部分的な悪というものの対立ではないだろうか? 共通の善とは、絶対的に善なるものが問題になっているのではなく、言ってみれば、最大多数の最大幸福が問題になっている。個人的な利害の総数がここでは問題になっているのである。このような共通の善という観点からすれば、絶対的に悪なるものもまた問題ではなく、部分的に悪なるもの、共通の善を脅かすものだけが問題となる。このような枠組の中で、個人的な行為に充実した意味がもたらされないだろうか? つまり、共通の善に奉仕する限りにおいて、その行為は充実した意味を持つ、という具合に。


 つまるところ、不快な他者の排除は、それが共通の善に奉仕するために、充実した意味を持つ、ということである。このことが、『地獄少女』に出てくる登場人物たちの、一見すると非常に不合理に思われる行為を理解するための鍵となることだろう。つまり、そこでひとつの謎として提出されていることは、なぜ、自己の利益を損なってまで、他者に不利益をもたらそうとするのか、ということである。ここで問題になっていることは、単純な「自己の利益か他者の利益か」の二者択一ではないだろう。「自己の不利益でもあり他者の不利益」でもあることが問題になっているのである。しかし、なぜ、そのような選択をするのだろうか? それは、そこに、共通の善というファクターが入りこんでいるからである。共通の善のために、自己にとって不利になるような選択をすること。これは十分にありうる選択である。ここにおいて、不快な他者の存在は、単に、ある個人にとって損害になる他者だけでなく、多くの人にとっても損害になる他者に格上げされているのである。


 さて、ここから次に、集団を形成していくにあたっての差異と同一性とでも言うべき問題の枠組に移っていきたいのだが、その前に、議論の方向性を明確にするために、ひとつの問いを提出しておきたい。それは、実存の問題は、いったい、どこで、決着をつけることができるのか、という問いである。


 僕が、以前、セカイ系と呼ばれる作品群を問題にしていたのも、まさに、この観点からだった。つまり、セカイ系に関して、個人と世界との間にあるはずの社会の水準が抜けている、というようなことが言われるわけだが、その理由は、つまるところ、実存の問題を、セカイ系作品は、社会の水準では解決しないという意図を持っているからである。


 実存の問題を社会的な水準で解決するという人は、いっぱいいることだろうし、それが一般的であるとも言えるかも知れない(その点で、『働きマン』のような作品で問われていることは、まず第一に、仕事を実存の範疇に入れるか入れないか、ということであるだろう)。しかし、だからこそ、社会的な水準で、自らのポジションを獲得していない人間にとっては、実存の問題は、もっとも深刻な問題として立ち現われてくるのである。


 このことを端的に示している最近の事件が、渋谷で起きたバラバラ殺人事件ではないだろうか? この事件において、「夢がない」という言葉が、殺人という行為を引き起こす一種のパスワードのような役割を果たしたようだが、この言葉は、まさに、実存に関わる問いを提起した言葉だったとは言えないだろうか? つまり、この言葉が言わんとしていることとは、「お前は誰だ?」ということではないだろうか? このとき、「私は浪人生である」という回答がほとんど何の役にも立たなかったことは明白である。むしろ、「夢がない」という言葉は、社会的アイデンティティの希薄さを突く言葉だったと言えるだろう。その点で、「バラバラ」にするという行為は、彼の実存そのもの(彼女の実存もそうだったかも知れないが)を指し示しているという点で、まさに、先の実存に対する問いの明確な回答になっていたと言えるだろう。


 社会的なポジションに実存を位置づけるということは、確かに危険なことではあるだろう。というのは、その社会的なポジションが失われてしまったときには、実存の基盤も同時に失われてしまうからである。それでは、いったい、どこで、実存の基盤を確保することができるのか? このことを、僕は、問おうとしているわけである。


 「お前は誰だ?」という問いがことさらに問題になる場所とそうでない場所とがあることだろう。例えば、MMORPGのようなネットゲームの空間についてはどうだろうか? 僕はMMORPGをやったことがないので想像で語るしかないが、そこでは、そのゲームシステムにおける社会的ポジション(職業など)を語ることが非常に容易ではないだろうか?


 ゲームというものは、総じて、そこで何をやるべきかという目的がはっきりしている世界である。つまり、そこにおいては、善と悪とが非常にはっきりしているということである。この善と悪との流れの中に自己の実存を投入していくこと、それが物語を生み出すということではないだろうか? そのような世界とは対照的に、善と悪とがそれほどはっきりしていない日常の世界においては、果たして、どんなふうに実存が投入されていると言えるのだろうか? 日常の世界に物語が決してないわけではないというのが僕の主張したいところなわけだが、この点については、次回以降、詳しく問題にしてみることにしたい。