アニメ『のだめカンタービレ』のオープニングについて

 アニメ『のだめカンタービレ』のオープニングを見ていて気になるところが少しあったので、ちょっと書いてみたい。


 気になるところは二点あって、まず一点目は、白い空間のうちにピアノが出てきて、そのピアノの足元から、カラフルな星をちりばめた黒い影が伸びているシーンである。僕は、最初、このシーンは、白い空間のうちをピアノが滑っていて、その軌跡が黒くなっているのかと思った(星の動きがピアノの移動方向を示している)。しかし、何度もこのシーンを見てみると、ピアノは白い空間のうちに停止していて、そのピアノから黒い影と星とが放出されていると考えているほうが自然ではないかと思った。理由は、ピアノは、その後、オーケストラの一部を構成していることが明らかとなり、つまりは、黒い影と星とは、ピアノが奏でる音楽を象徴していると考えられるからである。


 しかしながら、ある種の相対性理論のような考え方からすれば、ピアノが移動しているのか、それとも、星が移動しているのかは、それこそ、相対的だと言えるだろう。ピアノを中心に据えれば、星のほうが移動しているし、星を中心に据えれば、ピアノのほうが移動しているのである。ここには、時間と空間との統一とでもいうべき見事な表現が見出せると言えるだろう。つまり、空間的には動かないピアノが時間の上では音楽という経過を経るということ、このことを時間と空間の関係を裏返して言ってみれば、時間の経過に従って、音楽を空間上に道のように残しつつ、ピアノが空間的に運動する、というふうに表現することができるということである。


 気になった二つ目のシーンは、指揮者のシルエットの中に青空と雲が見出せるシーンである。これもまた、ここで象徴されているものは、音楽であると言えるだろう。つまり、夜空の星や青空に浮かぶ雲といった自然現象によって音楽における美が視覚化されているわけである。


 このシーンが特に気になるのは、最近のアニメ作品において、似たような表現が多様されているように思われるからである。つまり、そこで生み出されるのは、ある種の錯覚であるわけだが、この錯覚、つまり、平面的なものを立体的なものに見せかけるという錯覚(奥行きをもたらすという錯覚)は、まさしく、アニメ表現を成立させるための錯覚だと言えるだろう。つまり、窓だとか覗き穴というものは、われわれの欲望を惹きつけるのに最適なものであり、そこには常に、われわれが見ているもの以上のもの、まだ目にしていないが、いつかそれを目にする可能性のあるものを想定させることになると言えるのである。


 ここでの表現に、音楽という観点からひとつの解釈を与えるとすれば、それは、指揮者のシルエットの背後から迫り上がってくる虹に注目する必要があるだろう。この虹は、指揮者に指揮されるオーケストラの音楽を示していると思われるが、青空との対比で言えば、通常は青空の一部としてあるはずの虹が、青空よりも巨大であるということは非常に奇妙であると言っていい。つまり、われわれが青空の彼方に見たいものが別の空間から立ち現われてくるということ、この不意を突く効果こそが、おそらくは、ここで狙われたものなのだろう。


 先頃発売された『涼宮ハルヒの憂鬱』のDVDに、特典として、エンディングのダンスの完全版が収録されているようだが、こうした現象に、われわれとアニメーションとの関係の一端を見出すことができないだろうか? つまり、われわれがアニメに望んでいるものとは、常に不完全なものであり、そうした不完全さから、われわれは、完全なものという夢を見ることができるのだ、と。二次創作が生み出される源泉には、このような、見たいものが見られないという不満足感が存在しないだろうか?


 『のだめ』のオープニングのこのシーンが示唆しているのは、このような観点の逆転であり、つまるところ、そもそも、そこに欠けているものがあるという視点そのものが錯覚である、ということである。アニメーションの基本構造を示すものとして、それぞれ異なった態勢をしたカモメの模型が円形に並べられている円筒形の箱というものがあり、この箱を回転させることによって、あたかもカモメが飛んでいるように見えるわけだが、そのような錯覚が生み出されるためには、それぞれのカモメの模型同士の間に、切れ目が必要になってくる。つまり、見えない部分が常にあるわけである(カモメが動いているように見えるためには、覗き穴のようなところから箱の中を覗かなければならない)。この見えない部分のおかげで、われわれは、動いていないものを動いているものとして見ることができるわけであり、この見えない部分のうちに、われわれの欲望が入りこむと言うことができるだろう。


 以上のことで、『のだめ』のオープニングについてすべてを言い尽くしたわけではないし、この作品の本編については何も言っていないわけだが、こんなふうにいろいろなことを考えさせるほど非常に素晴らしいオープニングだったと僕は思う。