アダムとイブ

 ずっと以前から気になっている言説がある。それは、劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』のラストシーン、つまり、浜辺に横たわるシンジとアスカを、新世界のアダムとイブというふうに捉えるという言説である。こうした解釈は、公開当初からあったものだが、そんなふうにあのラストを解釈してしまうと、シンジがアスカの首を絞めるという極めてショッキングなシーンの意味がほとんどなくなってしまうことだろう。その点で、シンジ・アスカ=アダムとイブ説は、「気持ち悪い」という台詞と共に終わる非常に不快なラストの代償のようなものだと考えられる。簡単に言ってしまえば、われわれは、それがフィクションであればなおさら、ハッピーエンドであることを望むということである。
 シンジ・アスカ=アダムとイブ説の背後には、別の事情も存在していることだろう。それは、まさに、壮絶な体験をした男女のカップルが新しい世界のアダムとイブとなる、というようなラストシーンを迎えるサブカルチャー作品が非常にからである。例えば、典型的であるのは、手塚治虫の『ロストワールド』だろう。この作品のラストで、敷島博士と植物から生み出された「あやめ」という女性は、無人の惑星に取り残される。地球に帰れなくなった二人は、その星でずっと暮らしていくことを誓い合うわけだが、人間と植物というこの組み合わせは、非常に不気味なところがあると言わざるをえない。この結末は、ハッピーエンドのようにも見えるが、そこには、何かしら、倒錯的なところが見出されるようにも思える。
 手塚治虫における倒錯的なところというテーマは非常に興味深いものがあるが、まさに、アダムとイブの物語というところで言えば、『火の鳥』の「望郷編」はかなりショッキングな作品だと言わねばならない。この作品は、「もし世界に男女二人のカップルしかいなかったら?」という問いを提起したときに、当然出てくる問題を真正面から描いている点で非常に素晴らしい作品だと言えるだろう(このエピソードをぜひアニメ化してほしかった)。その問題とは、つまり、子孫を繁栄させるためには、どんな形であるにせよ、近親相姦は避けられない、ということである。そして、「望郷編」がさらに興味深いのは、兄妹あるいは姉弟というカップルではなく、母と息子というカップルをそこで描いていることである。この点は、まさに、手塚治虫における母親的なものというテーマを垣間見させる設定であるが、この点については、また別の機会にでも書いてみたい。
 そもそも、聖書のアダムとイブの物語が、楽園から追放された者たちの話であるならば、アダムとイブの名にポジティヴなものを見出すという傾向には、明らかに、別種の幻想が投影されていると考えたほうがいいだろう。調和と安定がハッピーエンドで求められているものだとするならば、まさに、アダムとイブは、そこに不調和と変動をもたらしている点で、物語の初発の点だとは言えるだろう。