文学フリマ東京42に個人誌『ニヒリズムの微光の下で』を出す
5月4日に開催される文学フリマ東京42に出店する。数年ぶりの出店だ。個人誌を作ったのでそれを頒布する。
作った本のタイトルは『ニヒリズムの微光の下で』という。
『ニヒリズムの微光の下で』
(A5版、108ページ)
著者:志津史比古
ブース番号: V-27
文学フリマ東京42
会場:東京ビッグサイト 南1-4ホール
開催日:2026年5月4日(月・祝)
時間:12:00〜17:00
サークル名:セカンドアフター
文フリ特別価格:700円
以下の3つの論考を収録している。
・ニヒリズムの微光の下で
・われらの同時代人アシタカ
・運命の読解――『輪るピングドラム』論
僕は2022年に『マトリックス論』という個人誌を出した。自分が初めて作った個人誌だ。
『マトリックス論』は書き下ろしだったが、今回の『ニヒリズムの微光の下で』は、既存の論考をいくつか集めたものである。とはいっても、「運命の読解――『輪るピングドラム』論」は未発表の論考なので、これだけは書き下ろしである。
原稿には全面的に手を入れた。段落分けを細かくしたり、冗長なところを削ったり、表現を柔らかくしたり。かなり読みやすいものになったのではないかと思う。
僕は、2010年代半ばくらいから、あるテーマに取り組んできた。それはニヒリズム思想である。この思想は、簡単に言ってしまえば、この世界の価値あるすべてのものも、死んでしまえばすべて「無」であり、結局のところ生きることそれ自体に意味はないというものだ。こうした思想にどう向き合えばいいのか、人生に希望が持てず、すべてが「無」だと思っていたとしても、何か生きるための土台のようなものを作れないのか。こうしたことを考えてきた。
アニメなどのサブカルチャー作品でも、こうしたテーマを取り扱っているものはいくつかある。というよりも、ここ10年くらいの間に、そのようなニヒリズムを作中で率直に示すものが目立ってきた。
そうだとしても、その種のサブカルチャー作品では、しばしば、ニヒリズムは話の出発点にすぎない。そのような暗い考えを持っていた人がいたとしても、何らかの体験(誰かとの出会い)を経て考えが徐々に変化していき、性格も明るくなって、世界に開かれていく、というのがよくある話の展開だ。
作品のそうした基本的な方向性は良いとしても、そのとき作中で示される「解決」があまりにも楽観的すぎるという印象を僕は持つ。「結局のところ、すべてうまくいくから大丈夫」みたいなメッセージを送り出す作品が大半だ、という印象を持つ。
逆に言えば、何ら明るい見通しを与えないまま、問題も何も解決されず、ただただ絶望だけが最後まで示され続ける、といった作品はとても少ない。これは、エンターテイメントとしてのサブカルチャーの限界だと言える。
もちろん、僕はアニメ好きなので、アニメの最終回にしばしば見出されるような奇跡の描写には、いつも感動してきた。僕がアニメ好きであり続けている理由も、そうした「飛躍」、つまり、思いもかけない出来事の描写にあると言える。
そうは言っても、やはり、空っぽの希望を説くような作品には不満を覚える。
受け手に対して「真実」を示すよりもむしろ、その不安を和らげるような「噓」を積極的につく作品がやはり多い。こうした「噓」は、フィクションに限らず、ありとあらゆる言説に見出される。何か明るい見通しを示さなければ、話を終えられないかのようだ。
僕はこうした現状に不満を抱いている。理解はできるとしても不満である。
だから僕は、アニメなどのサブカルチャー作品を批評する場合であっても、その作品が持つ暗さにいつも注目しようとしてきた。仮にその作品が明るい希望を最後に示していた場合であっても、あえてそこを無視して、作品の暗いところを評価しようとしてきた。これが『ニヒリズムの微光の下で』の基本的な姿勢である。
だから、僕のコンテンツ批評の基本的な方向性とは、作品を「もっと暗く読もう」というものだと言える。論考「われらの同時代人アシタカ」なんかは、『もののけ姫』を希望のない作品として読み変えた。作品を暗く読むことが、過去作を現代的な作品として蘇らせる方法だと僕は考えている。
もちろん僕は、ニヒリズムが正しい思想だとはまったく思っていない。やはり僕にとってもまた、それをどう克服するかが課題である。しかし、安易な解決を求めるよりは、ニヒリストでいたほうがマシだと思っている。現代においては、「信仰」を持ち出さないとすれば、おそらくニヒリズムを克服することはできない。ここに消費社会の限界がある。
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以下は本文の一部を切り貼りしてまとめた文章だ。基本的な問題意識はだいたいこんな感じである。
どこにもぶつけられない不全感は、自分を殺す衝動になる。無差別に周囲の人間を傷つける衝動になる。そして、「みんな死んでしまえ」という呪いがこの世界に巻き散らされる。
無害であったはずの人間が、見ず知らずの他人から加えられた暴力によって、彼自身もまた暴力を奮う「悪霊」に変身してしまう。暴力の理不尽さによって、生の無意味さに直面し、怒りや憎しみを掻き立てられる「怪物」になってしまう。
自分の感情をもはやコントロールできず、周囲に向かって絶えず自身の怒りを発散しているような攻撃的な人間が、それでも周囲の人たちと多少はマシなコミュニケーションを取れるようになるためにはどうすればいいのか。
暗闇の中に差し込む一筋の光を求めるという類の模索ではなく、安易に差し込む光をむしろ拒絶し、暗闇の中に留まって、その暗闇が発する「微光」のうちに希望を見出そうという試み。
この目的のためには、しばしばサブカルチャーが提供するような、ありふれた「救済」や「解決」を括弧に入れる必要がある。
作品の基調に見出される「暗さ」のうちに留まり続けて、作品が最後に提示する「解決」の明るさを和らげること。
暗闇によってもたらされる薄ぼんやりとした希望こそが、潜在的なままに留まっている「別の解決」を考えるための手がかりを与えてくれるはずだ。
各論考の冒頭部分。



