サブカルチャーと政治的なもの(その1)――すでに常に部分的なものであるというアイロニー

 今、大塚英志の『サブカルチャー文学論』を読んでいるのだが、江藤淳サブカルチャー観を問題にする次のような記述に、僕はかなりガツンとやられた。

 ところで江藤がここで「サブカルチュア」をいわゆるアニメやコミックといった具体的な領域を指して言うのではなく「全体文化」から乖離した「部分的な文化現象」の意味で用いていることに注意したい。このような文脈でサブカルチャーを語る時、江藤の中ではやはり「全体文化」の存在が所与のものになっていることをここで確かめておきたい。「サブ」すなわち「部分」なる語は否応なく「全体」の所在を証明してしまうことになるからだ。
 しかし、そもそも「全体文化」とは何なのか。例えばここで江藤が「全体文化」ではなく「上位文化」と記していれば理解し易い。その場合はただ文化的なヒエラルキーの中で上位にくる高級な文化を思い起こせばいいのであって、例えばいわゆる「文学」を多くの人はその中に加えるだろう。だが「全体文化」とは具体的な文化領域、表現領域を示すことばではない。それは「大文字の歴史」ということばにむしろ、置きかえられるべきものだといっていいだろう。
 江藤にとって「サブカルチュア」とは「大文字の歴史」との関わりの中で初めて「文学」化しうるものであり、それが江藤の基本的な「サブカルチュア」文学への定義である。
 だが、江藤の「サブカルチュア」文学論につきまとう困難さは「サブカルチュア」が関係を結ぶべき「全体分化」が彼の前には常に不在である、ということに尽きる。江藤淳にとって彼自身が生きる歴史である「戦後」、ともすれば「近代」そのものが何より一つの「仮構」なのである。
朝日文庫、2007年、11-12頁。)

 この文章を読んで僕がガツンとやられた理由はいくつかある。まずひとつ目は、サブカルチャーのサブ性とでも言うべきもの、つまり、サブカルチャーはその言葉の定義からして全体的なものではなく、部分的なものを取り扱っているという当然の前提を僕が忘れていたからである。僕はしばしば、サブカルチャーに何か全体的なものを託すところがあったのだが(とりわけセカイ系作品を論じる中で)、そのような僕の思い違いをこの文章は見事に否定してくれた。


 そして、このことが二つ目の理由に繋がるのであるが、二つ目は、サブカルチャーに全体的なものを託すという僕の傾向性それ自体のうちに何か本質的な問題を見出すことができるのではないか、ということにすぐに思い至ったからである。つまり、全体的なものを問題にするにあたって、なぜわざわざサブカルチャーを持ち出してこなければならないのか、ハイカルチャーではなくサブカルチャーを持ち出してくることによって全体的なものを語ろうとするその歪みのうちに何か本質的な問題が見出せるのではないか、ということに思い至ったのである。


 大塚英志は、江藤淳にとっての「戦後」が「仮構」であると言っているが、このことは、「大日本帝国の「実在」よりも戦後民主主義の「虚妄」の方に賭ける」という丸山真男の有名な言葉を思い起こさせる。ここには、ある種の距離や屈折といったものが見出せる。大文字の歴史の「仮構」や戦後民主主義の「虚妄」といったような言葉は、単なる否定的な言辞ではない。「仮構」だからダメとか、「虚妄」だからダメということが述べられているわけではない。「仮構」や「虚妄」であることが十分によく分かっていながらも、なおかつそれを肯定するというようなアイロニカルな態度がそこにはあるのだ。


 このようなアイロニカルな距離こそが、ある種の批評が可能になるための最低限の前提であると言えるだろう。しかし、いったいこの距離は何によって保証されているのだろうか? もし何もその距離を保証するものがないとすれば、こうした距離はすぐに忘却されて、大文字の歴史とは仮構にすぎないとか、戦後民主主義とは虚妄にすぎないといったようなベタな言説に反転してしまうことになるだろう。


 ここで要求されているのはリテラシーと呼ばれるものであり、リテラシーを担保するものとは文脈や教養といったものであるだろうが、今日という時代ほど、リテラシーや文脈、ある種の教養が問題になる時代もないと言える。というのも、例えば、「空気を読む」という言葉の「読む」ということで問題になっているのがまさしくリテラシーだろうし、正しく空気を読むためには、適切に文脈を把握するための基礎教養が必要になってくるだろうからである。


 僕がここで問題にしたいのは、サブカルチャーの持つそうしたアイロニカルな側面、文脈や教養を過度に要求されるという側面である。サブカルチャーは部分的なものを扱う。まさにそのことが一種のアイロニーを機能させるのであり、そこで生み出される言説は過度に文脈依存的なものになる。


 例えば、2ちゃんねるでよく見かける決まり文句に「ふいんき(←なぜか変換できない)」というものがある。この発話をベタな次元で読めば、これを書いた人は「雰囲気」を「ふいんき」と読み間違えているという一般的な教養のない人ということになる。しかしながら、これが決まり文句として流通していることからも分かるように、この発話は、それが間違いであることが分かっていながらもあえて書いているというアイロニカルな発話である。つまり、この発話はネタとして書かれているのであり、この発話に対して「「ふいんき」ではなく「ふんいき」だ」などと指摘する人は、一般的な教養はある人だとしても、2ちゃんねる的な教養のない人、ある種の興を解さない人ということになる。これこそがまさに「釣り」と呼ばれる行為であり、ここで狙われているのは、一般的な教養や日常的な作法に対して距離を取ることなのである。


 上記の例は非常に明白であるが、しかし、サブカルチャーには、多かれ少なかれ、同様の閉鎖性が付きものである。分かる人には楽しめるが、分からない人には楽しめないといったような閉鎖性が常に存在する。これは、ひとえに、サブカルチャーが部分的なものを取り扱っているからである。言うなれば、そこにひとつのコミュニケーションが成立しているとしても、そのコミュニケーションは(分からない人がいるという)ディスコミュニケーションを前提としたコミュニケーションなのである。


 教養がない人間や文脈を把握していない人間を前提にすることによって成立する言説。ネタというものが生み出されるためには、まさに、このような一種の内輪感覚、つまり、分かっている人と分かっていない人とのズレが必要になってくる。何かをネタとして楽しむことができる人は、文脈を知っている人と知らない人との両方の視点を内在化している。その言説がベタに文字通りに読まれうるということが、アイロニーが機能するための最低限の条件である。そうしたズレを生み出すことに寄与しているのが、言うなれば、サブカルチャーのサブ性といったものであり、部分的なものを取り扱うというその特性が必然的に認識のズレをもたらすのである。


 このようなズレが「全体文化」に対するズレとして作用するのであれば、そのようなサブカルチャーは、一種のカウンターカルチャーとして何らかの批評性を持つことになるだろう。つまり、全体文化の作法についてあえて知らない振りをすることが、全体文化に対する批評行為になりうる場合がある。だが、今日のサブカルチャーにとっては、全体文化などというものはまったく自明ではないだろうし、何がいったいメインカルチャーなのかということすらも自明ではないだろう。こうした状況にあっては、サブカルチャーカウンターカルチャーとして機能するのは非常に困難なことだろう。


 それゆえ、今日のサブカルチャーは、ただ単にアイロニカルになるという危険性を常にはらんでいる。つまり、何に対するアイロニーなのかということの自明性が決定的に欠けているとすれば、そこでのアイロニーは、ほとんど自己目的化したアイロニーとなるだろう。コミュニケーションするためにコミュニケーションするというのと同じで、距離を取るために距離を取るということになってしまうだろう。何かを批判するために距離を取るのではなく、距離を取りたいがために何かを批判するという逆転現象が生み出される可能性があるのだ。「ネタ」とか「釣り」という言葉に窺われるのは、そのような批評性を失ったアイロニーがもたらす麻薬的な陶酔の効果であり、一種の自家中毒である。


 何かをネタとして消費することはサブカルチャーのサブ性を強調することであるが、こういうところにこそ、サブカルチャーの強みと弱みの両方を見出すことができる。つまり、サブカルチャーには、何かから距離を取るという批評的に切れ味の鋭いところもあるわけだが、しかし、同時に、そのことは、自分自身の言説を非常にやせ細ったものにすることでもある。コミュニケーションを成立させるために、それだけの数のディスコミュニケーションを絶えず引き起こし続けなければならないとすれば、そこで生み出される言葉というものは、まったく寿命の短い言葉、一時的に特定の場所でしか通用しない言葉というものにならざるをえないだろう。そのような使い捨ての言葉に、多くの人が、そんなに長い間耐えられるわけではないだろう。どうしても、そこには、反転現象の生じる瞬間というものが見出されるように思える。


 その瞬間とは、まさに、ネタがベタへと反転する瞬間、それまであった距離が忘却されて、ある種の自明性が復活する瞬間である。こうした瞬間を北田暁大は『電車男』の流行に見出していた。

 この『電車男』が売れているということは、私たちの感動の方法論が、2ちゃんねる的になりつつあることを示しているとはいえないだろうか。ストーリーへの感動ではなく、電車男の苦闘に2ちゃんねらーとして立ち会ったことへの感動、感動できる状況を、匿名の内輪の仲間たちと作り出したことに対する自己言及的な感動である。それは「感動は作られる」ことを知悉しつつ感動してみせる、というどこか皮肉な振舞いといえる。お仕着せの感動物語を嗤いつつも、感動を求めずにはいられない皮肉な人たちの逃げ場、それが『電車男』だったのではないか……。
(『嗤う日本の「ナショナリズム」 』、NHKブックス、2005年、13頁)

 ここには、アイロニーという方法論の持つ脆弱さが明確に指摘されていると言える。これは、言うなれば、何かを対象化するという意識の活動、思考の活動の脆弱さでもある。「「感動は作られる」ことを知悉しつつ感動してみせる」といったときに、果たしてどれほどネタ的な距離が維持されているのだろうか? このような明白な反転現象を見せつけられると、それまで維持されてきたアイロニカルな態度とは、ベタな自明性を呼び出すための儀式的な行為だったのではないか、という気もしてくる。これまで何も信じていなかったのは、何かを信じるためだったというわけであり、これは、まさしく、『走れメロス』における王様の立場であるだろう。ここで示されているのは、あらゆるものを懐疑するという思考の活動に付きものの弱さである。


 サブカルチャーが全体的なものと結びつくのも、まさに、このような瞬間である。サブカルチャーの部分性が呼び水となり、そこに何か全体的なものが立ち現われるのだ。そこで立ち現われるものには様々な名前が与えられることだろう。それは「自然」と呼ばれるかも知れないし、「人間」と呼ばれるかも知れない。いずれにしても、そこに立ち現われるものに対して、さらなる距離を取ることが果たして有効なのかどうかということがここで問題になることである。


 人間が言葉を使用する以上、それがどんな言葉であったとしても、言葉とその言葉が指示する物との間には常に距離がある。つまり、人が何を言おうとも、言うことのできなかったものが常に残る。だが、サブカルチャーの言葉には、このような言葉の不完全さを最初から前提にしているところがある。つまり、すべてを言えないという言語の弱みが、一種の居直りになって、最初からすべてを言わないというサブカルチャーの強みとなっているのだ。


 だが、「言葉と物との間には常に距離がある」と言うことと、「しょせん言葉なんてものはすべてを言いえないんだ」と言うこととは異なる。サブカルチャーには、「しょせん〜なんだ」と言うことによって、ある種の自明性を容易に提示してしまうところがある。これこそが、サブカルチャーの部分的なものの魔力であり、こうした部分性がわれわれに様々な錯覚や陶酔を引き起こしているのである。


 しかし、ここでの錯覚や陶酔は非常に奇妙なものである。それは覚めた陶酔とでも呼ぶべきものである。二次元のキャラクターを「俺の嫁」と言う人に対して、「そいつはお前の嫁でも何でもなく単なる二次元のキャラクターだ」などと言ったところで、それはまったく意味がないことだろう。「俺の嫁」という発話にはアイロニカルな距離が見出せる。しかし、ここにはネタ的なものばかりではなく、ベタなものもまた間違いなく潜在している。何かしらの情熱がそこにはある。そのような情熱を維持する装置として、サブカルチャーの部分性がまさに機能しているのであり、サブカルチャーの部分性は、そんなふうにネタとベタとの境界線を不分明なものにさせているのである。


 さて、それでは、上記したような話がどうして政治と結びつくのかということについては、話が長くなったので、次回に述べることにしたい。少し前に話題になった『ヘタリア』を題材にしてまずは議論を進めていこうかなとちょっと思っていたのだが、その前に、興味深い事例が現われたので、まずはそれを取り上げて問題にしてみることにしたい。その事例とは、村上春樹エルサレム賞受賞スピーチである。このスピーチには、現代における政治的なものにまつわる様々な困難が見出されるように思える。そこでの困難とは、古くは「政治と文学」というテーマで議論されてきた事柄であるだろう。今日においては、「政治と文学」というテーマが、文学の問題としてではなく、サブカルチャーの問題として、何度目かの反復をしているように僕には思えるのである。(次回に続く)