来るべきアニメ批評について――津堅信之さんの記事を読んで

アニメージュ オリジナル(津堅信之のアニメーション研究資料図書室)
http://d.hatena.ne.jp/tsugata/20081113/1226578800


 今更であるが、こちらの記事を取り上げて、ここで語られていることについて少しばかり問題にしてみたい。


 昨年は、アニメ批評のことがそれなりに話題になった年だったと言える(東浩紀山本寛黒瀬陽平といった人たちが話題になった)。僕もアニメ批評には興味があるので、昨年は、雑誌やネットに載った記事をいくつかチェックして、アニメ批評について、広くはアニメにまつわる言説について、少しばかり考えていた。


 アニメ批評についてどう考えるのかということはかなり厄介な問題なので、そのことは順々に述べるとして、まずは、上記の記事で津堅信之さんが表明している違和感を問題にしてみることにしたい。


 津堅さんは雑誌「アニメージュ オリジナル」について、次のような違和感を表明している。

 しかし、私のように中途半端な「アニメ・ウオッチャー」からすると、結局のところ、こうした内容の定期刊行物の行き所はどこにあるのかと考えてしまう。
 すなわち、アニメを本質的に捉えようとしているのか、アニメ批評の本来形を示唆しているのか、マニアたちの渇望に応えているのか、新たなファン層を発掘しようと啓蒙しているのか、そのあたりの「落ち」である。
 正直なところ、私はたぶんついていけない。その私はといえば、文字通り半端モノであって、こういう雑誌の編集に関われる生粋のファン、ライターの知人は複数いるのだが、その人たちからは、「お前は、アニメーションのことは知っているが、アニメのことは知らない」と、お叱りを受けているのだ。
 その意味では、作品の完成形に至るまでの、単なる「メモ」「原材料」でしかない絵コンテやレイアウト、原画類の存在価値と読解能力をここまで求められるアニメというのは、他の芸術・芸能分野と比較して、著しく特異的といえるのかもしれない。

 穏やかな調子で書いているが、やはり、これは、「アニメージュ オリジナル」という雑誌に対する痛烈な批判だと思う。乱暴な言い換えをすれば、津堅さんの言いたいこととは、こういうことだろう。結局、この雑誌って、誰が読むの? 一部のマニアしか読まないんだったら、それってマニアの単なる自己満足に過ぎないんじゃないの? そんなことばかりやってると、読者が離れていって、自滅して終わりということになっちゃうんじゃないの?


 僕自身が「アニメージュ オリジナル」に対してどのような感想を抱いているかということを述べておけば、僕は、津堅さんが言うほど、この雑誌がマニア向けの雑誌だとは思わなかった。逆に言えば、マニア向けの専門誌としては、これでも内容はまだまだ薄い、という気がした。もっと濃いことができるはずなのに、それだと商売にならないから、この辺で止めておきました感が漂う中途半端さのほうが目立った感じだった(第二号の美少女アニメ特集などを見ると、やはり読者の間口を広げる方向性に進んでいるような気がする)。


 「アニメージュ オリジナル」がどういう雑誌かはともかくとして、上記の記事で津堅さんが表明している違和感というものは、やはり重要なものだと思う。というのは、そこでの違和感が、アニメ言説にまつわる開放性と閉鎖性という問題に関わっているからである。


 津堅さんが抱いている直観というのは次のようなものだろう。すなわち、アニメについて語ることが、なぜこんなにも息苦しく、重々しいものになってしまうのか。アニメについて語るために、なぜこんなにも多くのことを知っていなければならないのか。これほどまでに言説が重いものだと、そんなに敷居が高いジャンルならばアニメになど近づきたくない、などと思う人が出てきてしまうのではないか。このような、アニメについて語ることの重さの問題が、ここでは提示されているように思われるのである。


 アニメを見ることの気軽さとは対照的に、なぜこれほどまでにアニメについて語ることが重くなっているのか。もっとアニメについて軽やかに語る方法というものはないのか。そういう道を模索していかないと、今後アニメ言説というものは、非常にやせ細ったものになるのではないか。そのような危機感を津堅さんは表明していて、そうしたアニメについての新しい語り方の道を示すためにこそ、アニメ批評というものが求められるべきではないのか、ということを提案されているように思われるのである。


 ここに、津堅さんが東浩紀に寄せる共感というものも位置づけられるだろう。

 東浩紀さんが、アニメ批評の在りようについて時々言及していて、記憶で書いてしまって申し訳ないが、最近もそれに言及しているのを眼にした。彼に言わせれば、とにかく新人とか異分野の書き手がアニメ批評を手がけたとしても、枝葉末節の事実関係を叩かれるだけで、批評の在りようという本質的な立脚に至れないことを嘆いていた。
 しかし、この「アニメージュオリジナル」を読みこなし、その価値を認めるような人たちからすれば、まさに東さんがいうような「枝葉末節」のリテラシーがあるかどうかが問われているということなのだろう。

 東浩紀の提案するアニメ批評というものも、言説の開放性というものに関わっているように思える。つまり、アニメ批評というものは、言ってみれば、それだけで閉じた領域であるはずのアニメ言説を他の様々な言説と結びつけるような開放性を備えた言説であるべきだ、というような考えであるように思える。従って、アニメ批評の理想形というものがあるとすれば、それは、何か個別のアニメについて語ることが、他の様々な文化的な現象を語ることと等しくなるような、そのような言説だろう(これまで文芸批評がそのような言説として機能していたように)。こんなふうに、東浩紀は、批評というものを文化的な全体性というものと結びつけて考えているところがあるように思える。


 僕の考えとしては、まず、アニメーションにまつわる言説を研究と批評とにはっきりと分けるべきではないかと思う。もちろん、この両者には判然とは分かち難いところがあるだろうが、そんなふうにはっきりと分けておいた上で、アニメ研究の方向には、閉鎖的な言説を認めるべきだと思う。言説を閉ざし、読者の数を減らすことによってしか成し遂げられないことも当然あるだろう。長い時間をかけて、非常に細かい分析を施すことによってしか成し遂げられないことも当然あるだろう。そのようなアニメ研究の確立は当然目指されるべきである。しかし、それとは別に、アニメ批評という別種の言説も求められるべきだと思う。


 津堅さんは、おそらく半ば謙遜で言っているのだろうが、自身のことを「中途半端な「アニメ・ウオッチャー」」というふうに規定しているが、それよりももっと「中途半端な」僕のような人間からすると、マニアの人たちが語るアニメ言説というものは、非常に勉強になるところがある。その点で、「アニメージュ オリジナル」のいくつかの記事も、かなり勉強になったと言える。そういう点では、もっとマニアックな、もっと濃い話を聞きたいという思いも僕の中にはある。


 しかしながら、同時に、勉強しているだけでは詰まらないという思いが僕の中にはある。アニメがどのように作られているのかという話を聞くよりも、アニメが世界とどのような関係を取り結んでいるのかという話を聞くほうが、単純に言って、ワクワクする。そのような大きな話をあえて語らないということが、ひとつの自制となり、ひとつの倫理になるという場面も確かにあることだろう。しかし、そうなってくると、当然読者の数は減っていくことになり、一部の人だけが分かればいいということになってしまうだろう。


 おそらく、来るべきアニメ批評というものが存在するとすれば、それは、その批評を読むことによって、これまでの自分の世界観が大きく変わるような、そんなすさまじい破壊力を持つ言説になるのではないかと想像されるのだが、やはり、そのような批評が出現するには極めて困難な状況というものがあるだろう。多くの人に文章を読ませるためには内容を薄めなくてはならず、内容を濃くしようとすれば一部の人しか読まなくなる。アニメ言説はこのようなジレンマに陥っていて、そこから抜け出すための上位の解決が未だ到来していないというのが現状であるように思える。

 「アニメージュオリジナル」で披露されている内容を「知っているか知らないか」に関係なくアニメを語ることそのものの価値観を提示できるか否かを考えることが、実は本誌を手に取る際の最大の問題意識なのではないか。

 津堅さんの記事のこの結論部分のところを読んでも、やはり、この記事は、恐ろしく批判的なものだったと言える。津堅さんの言うように、なぜアニメについて語らなければならないのかという必然性(「アニメを語ることそのものの価値観」)について考えることが、アニメ批評を始めるための第一歩だと言えそうである。