『アニメルカ』誌に寄稿した件について――2010年も半ばを過ぎて

 『アニメルカ vol.2』に寄稿した。


アニメルカ vol.2』目次(アニメルカ公式サイト)
http://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-14.html
アニメルカ vol.2』目次+夏コミ販売告知(反=アニメ批評)
http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20100809/1281360179
夏コミ新刊『アニメルカ vol.2』のご案内(EPISODE ZERO)
http://d.hatena.ne.jp/episode_zero/20100808/p1


 僕は今回、「日常における遠景――「エンドレスエイト」で『けいおん!』を読む」という文章を書いた。僕がこの文章で狙ったことは、2009年から2010年へ、ゼロ年代から10年代へ、という時代の変化の一端を輪郭づけることである。


 もちろん、時代は10年ごとに規則正しく変化するわけでもないから、2009年が2010年になったからと言って、何かが変わる必然性もないわけだが、そんなふうに暦の上に見出される区切りをひとつの指標にして、何らかの時代の変化について考える切っ掛けを掴むことはできるだろう。


 僕は、『アニメルカ』誌の登場も、そうした時代の変化に対応している出来事だと思っている。まさに、この同人誌は、2009年から2010年への移行期間に出現した。それでは、その間に、どのような状況の変化があったのか。


 『アニメルカ』誌は、ネット上に散見されつつも分断されている多様なアニメ語りを可視化させる目的のために作られたという。

現在、アニメを巡る言説は混迷を極めている。アニメ誌や批評誌、ブログやtwitterに匿名掲示板――そうした複数の媒介上で展開される、アニメに関する様々な言論や問題意識は、相互につながりを持つことなく依然分断されたままだ。この第一号では、そうした雑多で孤立した言説の数々をひとつの誌面上にまとめあげることで、アニメ批評・アニメ語りの潜在的な多様性を明らかにすることを目的とした。
(「アニメルカ 序」、『アニメルカ vol.1』)

 言い換えれば、ネット上においてはその存在が辛うじて見出されるアニメ言説なるものがネットの外においてはまったく等閑視されているという危機感の下に、この同人誌は作られた、ということだろう。


 この危機感は、また、次のようなことも意味している。すなわち、ネット上に見出されるアニメ言説は、その存在が一時期的なものであり、状況が変化してしまえば、もはや見出されなくなってしまうような代物であるだろう、と。


 『アニメルカ』第1号の「序」においては、上に引用したように、ブログ、twitter、匿名掲示板が、ネット上のアニメ言説を支えるメディアとして例示されているが、僕は、この三つの中では、やはりブログの役割が非常に大きかったと思っている。そして、ブログというものも、時代性を帯びたネット上のサービスだと考えられるとすれば、ネット上のアニメ言説というものも大きく変化せざるをえないことだろう。


 まとめると、ネット上のアニメ言説とは、ブログやtwitterといったネット上のサービス(アーキテクチャとも言えるだろうが)によって左右されるような代物であり、アニメ言説という何らかのまとまりがそこに見出されているのも、これらのサービスが個々の断片的な言説を、それぞれのサービス固有の仕方で、結びつけているからだと言えるだろう。


 ということは、つまり、『アニメルカ』誌が目的とするような「雑多で孤立した言説の数々をひとつの誌面上にまとめあげること」は、ある意味、すでにネット上において実現していることだと言える。むしろ、ネット上においてのみ、そうした「雑多で孤立した言説」が何らかのまとまり(の見かけ)を保持できているのかも知れない。


 だが、それを可視化(意識化)することができるかどうかという点に大きな違いがあるだろうし、おそらく、『アニメルカ』誌は、まずは、事態の可視化を行なうことが重要だと考えているに違いない。『アニメルカ』誌は、別に、(ネット上の)アニメ言説の全体を指し示そうとしているわけではないだろう。むしろ、逆説的な仕方で、全体の見通しがたさを示そうとしているかのようにも見える。


 「アニメルカ 序」では、上に引用した個所のあとに次のような言葉が続く。「『アニメルカ』はここから十年代における新たなアニメ批評の可能性を模索したい」。これを単なる常套句として聞き流すこともできるだろうが、僕としては、ここで、「アニメ批評」という言葉が出てきていることを重視したい。ネット上のアニメ言説の多様性を明示することと新たなアニメ批評の可能性を模索することの間にはかなりの距離があるだろうが、この二点を結びつけることが必ずできるはずだという何らかの信念が編集者の方々にはあったのだろう。『アニメルカ』誌はこのような賭けの下においてのみ成立していると考えるべきである。





 僕が第二号に寄稿した文章の話に戻ると、こうした状況下において、僕は、やはり、2009年という時点に焦点を定めた。10年代がどのような時代なのか僕にはまだよく分からないし、10年代のアニメ言説がどうなるのかもよく分からない。そこで、まずは、ゼロ年代に出てきた二つの言葉、セカイ系と日常系について問題にしてみることにした。


 2009年には、「エンドレスエイト」というセカイ系の終わりを端的に示すような作品が出現すると同時に、『けいおん!』のように日常系を代表する作品も登場した。これらの作品が共に京都アニメーションという同じ制作会社によって作られたという点に注目して、日常系の現在について考えた。


 現在も『けいおん!』の二期が放送されているように、『けいおん!』という作品がゼロ年代から10年代の移行に際して重要な作品になることは間違いないが、それでは10年代は日常系の支配する時代になるのかと言われれば、それは違う気がするし、そもそもそこでの「日常」という言葉の内実が問題になりうる。


 僕が危惧するのは、そこでの「日常」という言葉が単なる現実志向を意味しないのかどうか、という点である。「現実」という言葉の意味もまた厄介であるが、僕が言う現実志向とは、現実を虚構と対立させて現実のほうに価値を置くような発想のことである。こうした発想に従えば、日常系作品などというものは、単に現実生活を上手く生き抜くためのマニュアルになってしまうだろうし、何らかの教訓を提示することがアニメ作品の目的ではないだろう。


 そうした点で、僕は、今回の文章のうちに孤独の問題をも伏在させた。便所飯とか孤独死とか無縁社会という言葉が漂う現在において『けいおん!』のアニメを見ること。こうした構図にあって、虚構的な箱庭世界を構築することによって日常系アニメは孤独な人たちを現実逃避させている、というような決まり文句から日常系アニメ作品をサルベージさせなければならない。


 こうした緊張関係の下で、日常系と呼ばれる作品群が、とりわけ『けいおん!』がどのような闘いを展開しているのか、つまり、日常生活における冒険という果てしない課題をどんなふうに遂行しているのかという点についてよく見ていく必要がある。そうした闘争の中においてしか日常という言葉に新鮮な意味を付与することはできないだろう。