ヤマカンにおける虚構の身体性の問題――『かんなぎ』から『フラクタル』へ

 庵野秀明は、2006年、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の制作発表にあたり、極めて挑発的な所信表明を行なった。「この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした」*1。この表明が意味していることとは、『エヴァ』を更新するアニメは『エヴァ』それ自体でしかありえず、「ポスト・エヴァンゲリオン」などというものは存在しない、ということだろう。ここには、アニメの現状に対する庵野秀明の認識が明確に示されていると言える。つまり、『エヴァ』以降も、非常に多くのアニメ作品が作られ、その中には斬新な試みを行なった傑作もあっただろうが、真の意味で新しいアニメ作品はなかったのである、と(もちろん、それではアニメにおける新しさとは何なのか、ということを次に問う必要があるだろうが)。


 山本寛(ヤマカン)は、これと似たような声明を、『フラクタル』の制作発表にあたって公表したが、ヤマカンの声明は、庵野秀明の大胆不敵な声明とは逆に、悲壮感に満ちている。「もうアニメは駄目かも知れない」*2。これがヤマカンの声明の主旨を端的に示す言葉であるだろう。


 しかし、「もうアニメは駄目かも知れない」という言葉はいったい何を意味しているのだろうか。アニメというジャンルそのものが衰退の兆候を示しており、このジャンルには未来がないということを言おうとしているのか。それとも、単にヤマカンにとってのみ、アニメという表現手段が色あせて見えるということなのか(アニメには可能性はないが、実写映像には可能性はあるということなのか)。いずれにしても、この声明それ自体からだけでは、アニメに関するヤマカンの現状認識を明確な形で見出すことはできない。単に状況が悪くなっているという(ある意味ありふれた)実感が示されているだけである。


 周知の通り、『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006年)のシリーズ演出で注目を浴びたヤマカンは、『らき☆すた』(2007年)で初めて監督の任に就いたが、「監督において、まだ、その域に達していない」という理由から、4話で監督を降板させられ、その後、京都アニメーションからも離れることとなる。ヤマカンが監督の任を初めて最後まで務めた作品は2008年の『かんなぎ』であり、その意味で、現在放送されている『フラクタル』は、ヤマカンがテレビアニメの監督を最後まで務めることになる(だろう)二作目のアニメ作品となる。


 いったいヤマカンが、アニメという表現媒体で何をやろうとしているのか、「もうアニメは駄目かも知れない」という実感の向かう先であるアニメとはどのようなものを指して言っているのか、といったようなことを問題にするにあたっては、所信表明でその認識が十分に示されていない以上、『フラクタル』に到るまでのヤマカンの来歴、少なくとも、その前作である『かんなぎ』に注目する必要があるだろう。ヤマカンの言う「アニメの未来」がどのようなものであるのか、アニメという名の下で『フラクタル』に賭けられているものとは何なのか。こうしたことを『かんなぎ』を再び見ることによって探ろうというのが本稿の目的である。





 ヤマカンは、『かんなぎ』放送前のインタビュー記事で、この作品を「同居もの」と位置づけ、『ママはアイドル』を始めとした80年代のドラマやマンガと関連づけて語っている*3。『かんなぎ』のOPアニメーションが端的に示しているように(『かんなぎ』の主題歌『motto☆派手にね!』は『ママはアイドル』の主題歌『「派手!!!」』に対するオマージュである)、この作品は、ヤマカンにおいて、まず、80年代のアイドル文化との関わりで位置づけられる*4。80年代のアイドル文化とテレビアニメとの関わりという点で言えば、例えば、『超時空要塞マクロス』(1982年)や『魔法の天使クリィミーマミ』(1983年)といったアイドルをモチーフとした作品が同時代に存在し、こうした時代を捉え返した作品として、近年では『WHITE ALBUM』(2009年)のような作品もあった。『WHITE ALBUM』とほとんど同時期の作品ということで言えば、『かんなぎ』もまた、80年代との距離感をテーマにした作品と言えるかも知れないが、そこにおいて問題となるのは、虚構に対する距離感である。


 80年代の消費社会の虚構性を問題にしたアニメ作品は、すでに同時代に存在していた。それは、例えば、(東浩紀が『動物化するポストモダン』で言及していた)『メガゾーン23』(1985年)*5や、押井守の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)などである。そして、ヤマカンが『かんなぎ』を制作するにあたって下敷きにした『ママはアイドル』(1987年)もまた、そうした虚構性を問題化していたドラマ作品だったと言える。


 『ママはアイドル』の批評的なところは、主演の中山美穂がアイドルの「中山美穂」役として出ているところである。つまり、ここには、メタレベルの視点が、テレビの中で行なわれていることは虚構にすぎないという認識が示されている。もちろん、こうしたメタな視点が何かベタなものを生み出すということはありうるだろうが(例えば「アイドルの素顔」といった形で)、中山美穂中山美穂として登場させている点で、このドラマもまた虚構にすぎないという自己言及的なメッセージを発していることは間違いない。さらに、作品の内容に関して言えば、テレビの向こう側の存在だったアイドルが、自分の母親という、ある意味、最も身近な場所を占めにやってくるということ。これは、虚構に対する距離感に一種の混乱をもたらすという点で、やはり、極めてショッキングな試みだと言える。


 こうした『ママはアイドル』の枠組みを『かんなぎ』の物語のうちにも見出したところにヤマカンの問題意識の片鱗を窺うことができる。つまり、『かんなぎ』においても、非常に遠くにいるはずの存在が突然身近にやってくるという体験が、言い換えれば、虚構の存在との距離感が、問題化されていると考えられるのである。


 それでは、ここにおいて問題化されている距離感、あるいは、虚構とは具体的にはどのようなものなのか。主人公が突然、女性キャラクターと同居することになるといった類のアニメ作品(「押しかけ女房型」あるいは「落ちもの系」などと呼ばれる作品類型)なら、現在無数に存在することだろう。『かんなぎ』も、まず間違いなく、そうした類型を踏襲した作品である。そういう意味では、このようなありふれた設定のうちに、どのように違和感をもたらすことができるのか、突然の同居という設定の不自然さをいかにして再発見することができるのか、といったことが、ヤマカンの目指した方向性だったと考えることができる。


 『かんなぎ』は、簡単にまとめてみると、主人公である高校生の御厨仁(みくりや・じん)と仁の作った木彫りの精霊像に顕現した産土神(うぶすながみ)であるナギがひとつ屋根の下で同居することによって生じる様々な出来事を描いた作品である。この同居という設定のうちにはいくつかの位相が重ね合わされていると考えられるので、以下、それを列挙してみたい。


 まず最初に、基本的な設定、ナギは神、産土神である。神という超越的な存在が人間の姿に顕現するという、この距離感が問題になっている。しかし、一神教文化ではなく、多神教文化(アニミズムの世界)である日本においては、このような神との同居という設定もそれほど驚くべきことではないかも知れない。むしろ、『かんなぎ』以前に作られた『かみちゅ!』(2005年)のほうが衝撃的だったと言える。中学生の女の子が突然、神になるということ。こうした展開もまた、あらゆるものが神になりうるアニミズムの世界においてはありうることなのかも知れないが、ここには「お前は神だ」という呼びかけがある点で(つまり自己のうちに異質性が発見される点で)、神との同居という設定以上にショッキングなものがある(またここには女子中学生の日常生活という近年のアニメ的な想像力とアニミズムの世界との親近性が暗に指摘されてもいる)。


 次に、ナギは女性である。男性が女性とひとつ屋根の下で突然生活することになるということ。上記したようにこうした作品設定はもはや珍しいものではないが、異性との共同生活(それも恋人ではない者同士の共同生活)によって生じるあれやこれやを改めて強調して描き出すという点では、それなりに新鮮な試みと言えるかも知れない。例えば、アニメ『かんなぎ』の1話と2話を原作のマンガと比べてみると、異性に対する意識が強調されて描かれているのがよく分かる。ナギの身体や下着に顔を赤らめる仁、エロ本を押し入れに隠す仁、ナギの布団の匂いを思わず嗅いでしまう仁。こうしたシーンは原作のマンガには存在しないものであり、近年の同居ものアニメの多くが素通りしてしまっている異性の存在感をあえて際立たせようという姿勢を見出すことができる(しかし、この姿勢が最後まで貫かれていたかどうかという点は問題であるが)。つまるところ、ここで問題になっている距離感とは、異性に対する距離感である。


 第三に、ナギは家族である。この位相において、『かんなぎ』は、擬似家族の物語となる。これもまた、近年のアニメ作品においては珍しくない設定だが、ここにおいて、ナギは、仁の姉というポジションを占めることになる(仁の妹ではない点が重要である)。さらに言えば、ナギは、時として、母のポジションを占めることにもなる。それは、産土神としてのナギの本性に相応しい様態と言えるかも知れないが、この点については、二重人格としてのナギという設定が上手く利用されている。つまり、一方の人格においてナギは姉であるが、他方の人格においては母である、というように。また、母というポジションに関しては、仁の家族構成においてなぜ母が欠けているのか、という謎めいた設定に対応するものであるだろう(作品中で仁の母に関する話が出ることはない)。つまり、空位であった母の場所にナギがやってくる、という形になっているのである(そして、こうした観点から、ナギと同じく母親的なポジションを占めようとする幼馴染のつぐみについて問題にすることもできるだろう)。


 第四に、ナギは、キャラクター、とりわけ『のらみみ』が明確にしたような居候キャラである。ある種、今日の「同居もの」の多くは、単なる異性との同居というラブコメ的な物語であるよりはむしろ、藤子不二雄作品に見出されるようなキャラクターとの同居という側面が強いところがある。こうしたキャラクターとの関係において問題になっているのは、まさに、虚構の存在との距離感である。そもそもナギは仁の作った木彫りの人形だったということから言えば、ナギとの同居のうちに、『ローゼンメイデン』で描かれるような人形との同居という主題、古くは『ピノキオ』や『鉄腕アトム』に見出されるような、人間未満の存在との関わりという主題を見出すことも可能だろう*6。さらに言えば、こうしたキャラクターの占める空間というのは、『ドラえもん』が端的に示しているように、家の中の非常に狭い空間、つまり、押入れのような空間だと言える(実際にナギが押入れの中に閉じこもるという天の岩戸をパロディにしたアニメオリジナルのエピソードがあったことを思い出すべきだろう)。そうした空間は、言ってみれば、家の中の余白なのであり、こうした余白のうちに入り込む存在があるわけである(こうした余白は、『ドラえもん』の「さようならドラえもん」のエピソードにおいて、「へやががらんとしちゃったよ」というふうに示される)。


 他にまだナギの存在を位置づける位相があるかも知れないが、ひとまずこのぐらいでまとめると、簡単に言って、ここにおいては、遠くにいるはずの虚構の存在が身近な場所に肉感的な身体を保持してやってくる、という経験が描かれていると言える。そして、そこで立ち現われる存在には、その二重性ゆえ、揺らぎがある。『かんなぎ』の物語が明示しているように、ナギは不安定な存在である。二重人格という設定もそうであるが、ナギは自分が何者であるのかということが自分でもよく分からない存在として描かれている(特にこの点が問題になるのが第11話である)。このように不安定な存在であるがゆえに、ナギは、目の前から突然いなくなってしまう可能性のある存在として示される。第1話の冒頭において、小さい頃の仁の前にナギが現われ、次の瞬間には、その姿を消してしまうというシーンがあるが、『かんなぎ』の物語は、この出現と消失の経験を反復していると言える*7。非常に遠くの存在かと思っていたら、次の瞬間には身近にいて、また次の瞬間には、また遠くに行ってしまっている。この揺らぎこそが、ヤマカンが『かんなぎ』において描こうとしていたものではないだろうか。


 そして、この揺らぎの問題は、身体性の問題へと、不安定な身体性の問題へと議論を展開させることができる。「ママはアイドル」という言葉が端的に示しているように、ここには、境界線上の問題、虚構の存在が肉感を持つようになる(ある種の受肉を達成する=リアリティを持つ)といったような身体性の問題が提示されていると言える。そして、この身体性こそが、おそらくは、ヤマカンの関心を強く惹いた問題系であり、『かんなぎ』を『ママはアイドル』に近づけて考えようとするヤマカンの意図も、つまりは、この虚構の身体性の問題へと集約されるように思われるのである*8


 虚構の身体という問題系がヤマカンの作品において最も鮮烈な仕方で提示されるのはダンスだろう。ダンスというのは、言ってみれば、人間の未訓練の肉体を、鍛錬によって、明確な形式性と方向性を備えた身体へと変換することではないだろうか。つまり、ダンスというのは、ある意味で、人間の身体をアニメのキャラクターの形式的な身体(死んだ身体)に近づけることだと言えるわけだが、それでは、人間ではなく、アニメのキャラクターがダンスをするとはどういうことなのだろうか。そこで目指されている方向性は(少なくともヤマカンのダンスにおいては)単なるリアリズムではないだろう。つまり、ここで提示されているのは、単にアニメーションの快楽としてのダンスということではなく、アニメのキャラクターが特別な身体性を獲得することだと思われるのである。


 『涼宮ハルヒの憂鬱』のED、『らき☆すた』のOP、そして、『かんなぎ』のOP。ヤマカンが演出したこれらのダンスシーンで狙われていることとは、身体レベルでの触発の機能だとは言えないだろうか。『ハルヒ』のEDダンスが、YouTubeを介して、ブームを巻き起こしたように、そこには、人が踊ってみたくなるという点で、ある種の誘発の機能があるように思われる*9。ここで問題になっている身体性のおそらく対極に位置すると思われるのが、東浩紀が『動物化するポストモダン』で分析していたような、データベースによって構築されたキャラクターの身体性、つまり萌えキャラ(萌え要素の組み合わせによって出来上がったキャラクター)の記号的な身体性である。こうした記号的な存在であるはずの(萌え)キャラクターたちが、突然、ある瞬間に、肉感的な身体性を獲得するということ。そうした特殊な瞬間や揺らぎこそが、ヤマカンの狙い定めている地点であるように思われるのだ*10


 『涼宮ハルヒの憂鬱』でヤマカンが演出したエピソードを見ることによっても、こうした身体性に対する問いを見出すことができる。例えば、第1話「朝比奈ミクルの冒険」。このエピソードは、ヤマカンが監督を務めた自主制作映画(『怨念戦隊ルサンチマン』)の経験が役立っていると言われるが、そこにある歪みにもっと注目すべきだろう。つまり、ここには、素人の一般人の演技というものが問題となっており、まだ十分にその形式性を獲得してはいない身体への興味、不自然に動く身体に対する興味が見出されるわけである。ここにおいては、まさに、実写映像で把握されるような人間の身体性とアニメーションにおけるキャラクターの身体性との境界領域が狙われていると考えられる*11。また、同様の身体性は、第12話「ライブアライブ」でも問題にされていることだろう。楽器演奏という形で示される身体性は、ダンスと同様に、訓練されてひとつの形式となった身体性だと言えないだろうか。


 萌えというのは、ある意味で、日本の貧しいアニメ環境における豊かな発明品だと言える。90年代からゼロ年代にかけては、このような萌えの試みが過度に進んだ時代だったと言えるが、そうした極めて記号的な操作に対して、ヤマカンは違和感を持っていたのだろう(しかし、これは逆に言えば、ヤマカンがそうした記号的な操作に敏感だったということでもあるが)。いずれにしても、こうした違和感が岡田麿里に対するヤマカンの高評価に繋がっていることは間違いない。つまり、岡田麿里がシリーズ構成を担当したアニメ作品、とりわけ『true tears』(2008年)と『とらドラ!』(2008年)とは、ヤマカンにとって、記号的な存在であるアニメのキャラクターがそこからはみ出すような身体の動き(表情)を見せた作品、萌えの狭間にキャラクターの内面が窺えるような作品として捉えられたはずである。


 『かんなぎ』と『とらドラ』とは同時期の作品であり、ヤマカンが『かんなぎ』で試みたかったことが『とらドラ』においてより明確な形で示されていることは皮肉な事態だと言える*12。さらには、萌えとギミックの権化であるようにヤマカンには見えたであろう京都アニメーションが、まさに、ヤマカンの関心の中心であると思われるキャラクターの身体性を問うような作品、つまりは、『けいおん!』を作り上げたこともまた皮肉な事態だと言える*13。ギミックからドラマへ、記号的な萌え表現からそれとは別の身体性へ*14ゼロ年代の終わりにヤマカンが鋭くも予言していたアニメの方向性は、彼の言うとおりになったところがあるが、しかし、それは、ヤマカン自身の作品において十全な形で実現したとは言いがたいところがある。





 それでは、こうした文脈の延長線上において、現在放送中の『フラクタル』はどのような作品として立ち現われることになるのだろうか。


 『フラクタル』が宮崎駿の『天空の城ラピュタ』(1986年)に似ているということは、多くの人がすでに指摘していることであるが、誰もが同種の連想を働かせることは想定内のことだろうから、それでは、なぜヤマカンは、『ラピュタ』に似せて『フラクタル』を作ったのか、ということが問われねばならない。周知の通り、『ラピュタ』に似せて作られた作品はいくつか存在し、その最も代表的な作品は庵野秀明の『ふしぎの海のナディア』(1990年)であるわけだが、『フラクタル』がこの『ナディア』に似せて作られていることもまた多くの人が指摘していることである。


 重要なのは、『フラクタル』が何かに似ているということではなく、おそらく『フラクタル』が、『ラピュタ』から『ナディア』へというアニメ史の反復をさらに反復しようとしているということである。ここにはコピーのコピーというヤマカンの自覚がある。つまり、まず、庵野秀明における「コピー」の自覚、自分たちには宮崎駿がやっているようなオリジナルの作品は作れないといったような自覚があるわけだが*15、この庵野の自覚を踏まえて、ヤマカンは、自分はさらにコピーのコピーにすぎないという自覚を持っているのではないだろうか*16


 こうしたコピーのコピーという意識は、すでに、ヤマカンが監督した自主制作映画『怨念戦隊ルサンチマン』(1997年)に見出すことができる。この作品は、ガイナックスの前身であるダイコンフィルムが1982年に制作した自主制作映画『愛國戰隊大日本』へのオマージュ作品であり、すでに『大日本』が戦隊もののパロディであったことから考えるとすれば、『ルサンチマン』はまさしくコピーのコピーである。『新世紀エヴァンゲリオン』を始めとして、庵野秀明のアニメ作品には、先行する作品の引用がいろいろと見出されるわけだが、『エヴァ』の衝撃を様々なところで語るヤマカンであればこそ、オリジナルから自分が非常に遠いところにいるという自覚を必ず持っているはずである。


 そして、このコピーのコピーという自覚は、まさに、『フラクタル』の作品内容と重なっているところがあるように思われる。例えば、この作品においては、フラクタルシステムを巡って、それを肯定する僧院側とそれを否定するロストミレニアム側との対立が描かれるわけだが、そこにおいて、ロストミレニアムの生活様式というのは、フラクタルシステムに依らないもの、つまり、より自然なものとして描かれる。しかし、ここでの自然さというものは、明らかに相対的なものであり、現代のわれわれの生活様式に近いというものでしかない(例えば、近代的な生活様式を否定するアーミッシュとロストミレニアムとを比べてみたら、どうなるだろうか)。つまり、ロストミレニアムの生活様式が、すでにオリジナルから遠く離れたものなのであり(何を本来の人間性と見るかは問題であるが)、フラクタルシステムに依拠した生活はそれに輪をかけて遠く離れているだけだ、と言うこともできるはずである。


 同種の距離感は、家族関係(完全な個人主義が達成されている『フラクタル』の世界と現代的な核家族との差異)や身体性の問題についても言えることだろう。そうした意味においては、『フラクタル』で最もラディカルな問題提示をしているのはネッサの身体性だろう。完全にヴァーチャルな存在であるはずのネッサの身体におけるリアリティという問題がここにはある。そして、このネッサの身体性においてこそ、『かんなぎ』でヤマカンが取り扱っていたような身体性の問題が集約して見出されるように思われるのである。とりわけ、ネッサにおいては、触れられる/触れられない、見える/見えないという知覚のレベルにおいて、身体性の問題が(さらには存在の問題もまた)提示されている。つまり、そこに見出されるのは、『かんなぎ』のときと同様、突然その姿を消してしまうかも知れない不安定な存在であり、虚構であるにも関わらず何らかの肉感を持つような身体性なのである。


 『フラクタル』の物語がいったいどこに向かうのか、ヤマカンの提示しているような問題系がどのように展開されるのか。そうしたことに関しては、『フラクタル』を最後まで見なくては分からないが、『魔法少女まどか☆マギカ』が異常な盛り上がりを見せている現状からすると、『フラクタル』がどれほど切迫した問題(リアリティを感じさせてくれるアクチュアルな問題)を提示できているのかという点については、なかなか厳しいところがある。『まどかマギカ』は、魔法少女という優れてアニメ的なイメージ類型を上手く利用しているところがあるが、同様のことは『フラクタル』についても言えるだろう。つまり、『フラクタル』は、『ラピュタ』が描いていたような冒険ファンタジーのイメージを利用しているわけだが、だとすれば、『まどかマギカ』と同様に、そうしたイメージからどんなふうにずれることができるのか、といったことが課題になっているはずである。


 『フラクタル』が冒険ものの様式を踏襲しているとすれば、いったいクレインたちの旅がどこに向かうのか、その旅を経ることによってクレインたちは何を発見することになるのか、ということが当然問題になることだろう。そこから、『ラピュタ』からの距離感が、さらには、『ナディア』からの距離感が測られることになる。『ラピュタ』において、パズーたちの冒険は、文明の起源へと遡る。高度に発達した文明が一度滅び、現在の科学技術の発展は二度目の発展であることが示される(つまり人類は同じ過ちを繰り返す可能性があることが示唆される)。こんなふうに、ここには外から自分たちの日常を眺める視点が存在するのであり、自分たちの未来の姿も同時に示されていると言える。『ナディア』において、ジャンたちの冒険は、人類の起源へとたどり着く。『ナディア』では、『ラピュタ』の枠組みからずれるために、SFや特撮といったオタク的な想像力が過度に注入されることとなる。それゆえ、ここで見出される人類の起源というのも、ある種、オカルト的な様相を呈しているわけだが、まさに、このような擬似的な起源を構築することこそが、オリジナルからの距離感(「大地を離れては生きていけない」という『ラピュタ』の主張に対するアンサー)を示していたと言える。


 それでは、『フラクタル』において、同種の距離感はどのように示される可能性があるだろうか。『フラクタル』において重要であるのは、やはりそのSF設定であるだろう。そこで示されている風景が、『ラピュタ』のような、ファンタジー作品の風景であるとしても、それは、技術の力によって生み出された風景、つまり、再構築された自然の風景だと言える。一見自然に見えるが、しかし、それは再構築された自然である。これはまさに身体性に関しても言えることであるが、この距離感をどのように示すことができるのかというところが、『フラクタル』の注目点であるだろう*17


 ネッサの身体性に関して、またドッペルの存在という設定に関して、そこにおいては、触れられるものは触れられないものよりも価値があり、虚構のうちに何らかの価値を見出すのは間違っているという主張を読み取ることもできるだろうが、このような凡庸な主張は、すでに、『電脳コイル』(2007年)というアニメが徹底的に疑問視していたということを思い出すべきだろう(『電脳コイル』においては、電脳ペットであるデンスケの存在が、このような虚構の身体性の問題を集約して示していた)。そうした意味では、『電脳コイル』と同様に、拡張現実をモチーフにしている『フラクタル』は、この『電脳コイル』に拮抗するような虚構のリアリティの問題を提示することができるのかどうか、ということが問われていると言える。加えて、そうしたリアリティが、ダンスに代わるような何らかの斬新なアニメ表現によって示されるのかどうかということも問われていることだろう。


 失われた自然をアニメの中で再現するという再自然化の過程が宮崎駿ジブリ)に見出されるとすれば、また、すべては虚構であり複製であるが、そうした虚構のうちにもリアリティを見出すことができるということを庵野秀明ガイナックス)が示しているとすれば、ヤマカンは何を示すことができるのだろうか。『電脳コイル』においては、電脳空間が、単に平板化された奥行きのない世界としてではなく(つまり肉感的なリアリティをもたらさない世界としてではなく)、昭和30年代の風景がかつて示していたような、奥行きを持つ世界として提示されていた。前述したように、『フラクタル』で示されることが、ヴァーチャルなものの虚偽性を暴露し、素朴な自然さを称揚するものであるとすれば、あまりに凡庸であるだろう。ヤマカンの興味が虚構の身体性にあるとすれば、そのような凡庸な結論には決して至らないはずである。


 そもそも、『かんなぎ』が、まさしく、自然との断絶をテーマにしていた作品だった。『ラピュタ』風に言えば、『かんなぎ』は、大地から人間が離れてしまった以後の物語である。そこにおいて興味深いのは、土地に根付いていたはずの神が、新しい形態の下で、つまり、ローカルアイドルとして、ひとりのキャラクターとして、再誕生したことである。この種の現象は聖地巡礼という形でまさに問題になっていることだと思われるが、『らきすた』の鷹宮神社/鷲宮神社に端的に示されているように、そこにおいて、土地と人との関係は一義的ではなくなる。そこでの土地は、『電脳コイル』が描いていたように、情報ネットワークのうちに再統合され、ある種の情報端末のような機能を果たしていると考えられるのである。


 周知のように、ゼロ年代には、昭和30年代ブームが起こったわけだが、過去を美しく描くというノスタルジーの方向性においては、アニメの虚構性は大いに役立つことだろうし、そうした意味において、すでに失われてしまったものを、ゼロ年代のいくつかのアニメは、これまで描いてきたと言える。こういうふうに整理してみると、すでに80年代に宮崎駿が『ラピュタ』の後に『となりのトトロ』を作ったというのは重要な転換点であると言えるが、いずれにしても、この種のノスタルジックな過去の風景に対して現在の風景を際立たせてきたのが、ここ数年の日常系アニメだったと言える。こうした文脈において、おそらく『フラクタル』が問うているのは、アニメは具体的な未来の方向性を指し示すことができるのか、ということではないだろうか。「もうアニメは駄目かも知れない」というヤマカンの実感も、そうした未来との関わりで述べられた発言と考えるべきだろう。『ラピュタ』が未来のアニメであったのと同じ意味で、『フラクタル』も未来のアニメたりうるのかどうか。飛行石がブルーウォーターになり、それが今はネッサという少女の姿になっているということ。ここにはテクノロジーに対する姿勢と同時に未来に対する姿勢も見出せるわけだが、そこで虚構の身体性がどのような意味を持つことになるのか。まさにここでは、今ここに立ち現われていないものをどのように思い描くことができるのかという想像力が試されている。アニメがそのような想像力にとって良い場所であるのかどうか。今後の『フラクタル』の展開を注視したい。

*1:庵野秀明総監督所信表明:我々は再び、何を作ろうとしているのか?」(みんなのエヴァンゲリオン(ヱヴァ)ファン)

*2:監督声明」(フラクタル - FRACTALE - 公式サイト)

*3:「普通にできたらええねん」 「らき☆すた」「かんなぎ」のアニメ監督・山本寛さん」(うわさのニュースワイドショーブログ(元は毎日新聞の配信記事))

*4:ヤマカンと80年代文化との関わりを指摘した記事として、「新房昭之、山本寛両監督の作品にみる、とんねるずの面影」(さよならストレンジャー・ザン・パラダイス)を参照のこと。

*5:東浩紀は、『メガゾーン23』が80年代文化の虚構性に対して示していた認識を次のようにまとめている。「八〇年代の日本ではすべてが虚構だったが、しかしその虚構は虚構なりに、虚構が続くかぎりは生きやすいものだった」(『動物化するポストモダン』、講談社現代新書、2001年、31頁)。

*6:こうしたキャラクターの存在様態については、拙稿「キャラクターの不定形な核――『鉄腕アトム』から『新世紀エヴァンゲリオン』へ」(『アニメルカ』3号、2010年)を参照のこと。

*7:ナギと出会った高校生の仁が再び神社を訪れて、過去の自分の体験を思い出し、再びナギが目の前から姿を消してしまったのではないかと一瞬考えるシーンが第1話にはあるが、これは原作にはないシーンである。この点を指摘しているブログの記事として、「ナギと仁の出会いシーン分析・考察::アニメ『かんなぎ』第一幕 「神籬の娘」」(クリティカルヒット)を参照のこと。

*8:アイドルの身体性というのも、まさに、このような揺らぎを示しているのではないだろうか。大塚英志は、岡田有希子の自殺と絡めて、アイドルの身体について語ったことがあるが、まさにこのような地点こそ、ヤマカンがアイドル文化に向ける関心の中心ではないだろうか。『「おたく」の精神史』(講談社現代新書、2004年)第8章「岡田有希子と「身体なき」アイドル」を参照のこと。ここにおいて、アイドルの死と身体性の問題が、キャラクターの死と身体性の問題と重ね合わされていることは間違いない。

*9:アニメのキャラクターたちが、ダンスほど明確な形ではなくても、ある瞬間に特別な身体的振る舞いをするということ。こうしたシーンを単に強度のあるシーンと捉えるのではなく、身体レベルでの触発が狙われているシーンとして考えることはできないだろうか。こうした瞬間を切り取り、拡大して見せてくれるのがMADである。もちろん、アニメの強度のあるシーンをダイジェストしたMAD(いわゆる作画MAD)も存在するが、あるキャラクターの動作や台詞を何度も反復させただけのMADも存在する。こうしたMAD作品の具体例として、『けいおん』MAD「【10分間耐久】うんたん【唯かぁいいよよ唯】」、それから、『らきすた』MAD「らき☆すた こなた256アハ体験(最終版」を参照のこと。また、こうしたMADについて「触覚=イメージ」という言葉から問題にした論稿として、cineeye「手がイメージを見る」(『アニメルカ』2号、2010年)も参照のこと。

*10:ヤマカンのダンスアニメに関しては、単にダンスシーンだけではなく、そこでの構成、とりわけカット割りに注目する必要があるだろう。『ハルヒ』にしろ『らきすた』にしろ『かんなぎ』にしろ、ダンスの映像が途中で途切れて、そこにキャラクターのアップが挿入されるということ。こうした構成のうちに、言ってみれば、単なるリアリズムには留まらない、アニメ独特の効果(萌えの効果)が見出されるわけである。

*11:ヤマカンのアニメ演出に関しては、しばしば、「fix(カメラ固定)主義」ということが語られるが、この点に関しても、身体性に対する興味と絡めて問題にすることができるかも知れない。fix主義に関しては、『オトナアニメ』10号(洋泉社、2008年)の平池芳正の指摘(17頁)を参照のこと。

*12:かんなぎ』と『とらドラ』とを比較したブログの記事として、拙稿「アニメ『かんなぎ』に対する不満――2008年秋アニメについての雑感」(metamorphosis)を参照のこと。

*13:けいおん』と身体性の問題を取り扱った論稿として、杉田u「『けいおん』の偽法――逆半透明の詐術」(『アニメルカ』3号、2010年)を参照のこと。この論稿は、柄谷行人が『日本近代文学の起源』で取り扱っていた風景と内面との関わりという議論を『けいおん』においても見出している点で注目に値する。またブログの記事としては、「キャラクターの身体が揺らぐ――『けいおん!!』の後期OPについて」(EPISODE ZERO)が『けいおん』における身体性の問題を論じていたが、残念ながら今は読むことができない。また、『けいおん』に関してではないが、同様にキャラクターの身体性を論じた最近の記事として、「可塑性、性、距離―アニメ『放浪息子』とキャラクター」(ジビインコウ)も参照のこと。

*14:ギミックからドラマへというヤマカンの方向性に関しては、インタビュー記事「ヤマカン、語りまくって気がついたら10000字」(『オトナアニメ』10号)を参照のこと。また、この点に関するブログのまとめ記事として、「「かんなぎ」で山本寛監督がしたい事〜オトナアニメより〜」(あしもとに水色宇宙)も参照のこと。

*15:コピー世代という庵野秀明の自覚については、例えば、大泉実成編『庵野秀明スキゾ・エヴァンゲリオン』(太田出版、1997年)を参照のこと。

*16:コピーという言葉から、宮崎駿庵野秀明に対するヤマカンの関係性を問題にした記事として、「『フラクタル』ヤマカンが身を賭した理由とは」(ソラゴト体系)を参照のこと。

*17:フラクタル』における身体性の描写に注目している記事として、「『フラクタル』#1を楽しむために」(幻視球)を参照のこと。