デジタル技術時代のテレビアニメ――リミテッド・アニメーションの現在

 現在の日本を脱工業化社会というふうに言うことはできるだろうが、こうした社会の変化とアニメーションを見ることとの相関関係はどうなっているのか、ということが最近気になっている。


 テレビの登場というものが非常に大きいだろうが、テレビでアニメを見ることと劇場で映画のサブジャンルとしてアニメを見ることとは、本質的に異なる体験ではないだろうか。


 映画と工業というものが密接に関係しているとすれば、テレビというものは新しい産業、とりわけ情報産業と密接な関係があるだろうし、そうしたテレビが主流なメディアであった時代も、ネットの出現によって、終わろうとしているように思える。


 情報産業の次の産業が何と呼ばれるのかよく分からないが、少なくとも、テレビの衰退と共に、テレビアニメのあり方も大きく変わってくることだろう。現在はまだ過渡期だと思われるので、ネットを舞台にしたアニメというものが主流になるのか、仮に主流になったとしても、それがどのようなアニメでありうるのかはよく分からないが、いずれにしても、アニメのあり方が大きく変わることは間違いないように思える。


 僕は、1963年の『鉄腕アトム』から始まる日本のテレビアニメの歴史が、1995年の『新世紀エヴァンゲリオン』でひと区切りするのではないかと思っているのだが、そうした意味で、『エヴァ』は最後のロボットアニメと呼ぶことができるかも知れない。どこら辺が最後かと言えば、死んだ息子の代わりとして天馬博士によって作られたロボットがアトムだったとすれば、そして、人間の代わりとして作られたにも関わらず自身が人間ではないことに悩んでいたのがアトムだったとすれば、そうした科学の進歩が、遺伝子情報の解読にまで進み、巨大ロボットでありつつも同時に人間でもある存在としてエヴァンゲリオンが作られた、まさにこの段階こそが、工業から情報産業への移行を完遂したように見えるのである。


 アニメーションの語源というのは魂を吹き込むというものだが、まさに、テレビアニメの歴史が『鉄腕アトム』から始まるというのは象徴的である。それまでのアニメーション、とりわけディズニーのアニメを意識して作られたアニメーション(いわゆる「漫画映画」)というものの理想が、ある種の自然の模倣だったとすれば、テレビアニメの課題とは、単に死んだものを生きているように見せかけることにあるのではなく、死んだ機械を生きた存在と同等かそれ以上のものにすることにあっただろう。機械を人間に変えるというピノキオ的な課題が問題だったのではなく、機械を人間と同等の地位にまで引き上げることが問題だったのである。


 こうした点で、テレビアニメの試行錯誤とは、リミテッド・アニメーションの「リミテッド」という言葉にどのような意味を付与するかにあったと言える。機械が人間になれないというのもリミテッドであるとすれば、『エヴァ』が示しているように、機械=人間との完全な融合を果たすことができないというのもリミテッドである。人類補完計画を完遂するためには「あまりにも時間が足りない」のであり、テレビアニメであったはずの『エヴァ』は劇場アニメに変化せざるをえなかったのである。


 情報技術の進展というものは、われわれの身体、さらには、あらゆるものの根源にあるはずの実体というものについての考えに、大きな打撃を与えることだろう。強固な物質が単なるデータに還元されるのである。こうした点で、『エヴァ』以降のテレビアニメにおいては、もはや、機械か人間かというところが決定的な分かれ目にはなりえないだろう。つまり、機械もデータに還元できるのなら、人間もデータに還元できるという、そのような視点が立ち上がってきたのである。


 こうした点で、ネット上における適切なアニメ受容とは、単にアニメを見るのではなく、アニメをひとつの素材として(データとして)利用し、そうした素材を様々に組み合わせて、何か別のものを作り出すことにあるだろう。そうした意味で、『らき☆すた』という作品は、ニコニコ動画という場において有効な素材として機能していたという点では、まさに今日的なアニメ作品だったと言える。


 人間にはなりえない機械人形を(あえて)愛するというのがアニメオタクの偏愛(フェティシズム)だったとすれば、今日的なオタクの目指す方向とは、現実と虚構との境界線を取り払って、無限のデータ交換というゲームに興じることであるだろう。三次元(現実)の模倣が二次元(虚構)であるという、そのような一方通行のデータの流れだけがあるわけではない。二次元のリミテッドな情報が三次元の複雑な情報を受容しやすいように縮減させるという流れを見出すこともできるだろう。


 これまでのテレビアニメが、自然との繋がりを断念し、その断念をあえて積極的に肯定するという、そのような屈折を抱え込んでいるとすれば、今日のテレビアニメには、そのような屈折を見出すことはできないだろう。テレビアニメは、データを洗練させる場所のひとつに過ぎず、良いアニメとは十分に洗練されたデータを提供するアニメのことを指すに違いない。


 京都アニメーションは、偶然そのような地点に辿りついたのだろうが、現実と虚構の間の適切なデータ交換を行なうための装置となるアニメを提供している。京アニのアニメは、データ方式の異なる二つの領域のデータをエンコードしたりデコードしたりする、そのような装置となっているのである。


 こうした点で、今日のテレビアニメにおいては、リミテッドという言葉は、自然を模倣し切れないという断念を意味するのではなく、データの縮減あるいは圧縮を意味することだろう。可能な限りありとあらゆるデータを盛り込むのではなく、洗練されたデータを提供することで、情報をスムーズに流通させるのである。


 それゆえに、アニメというものは、世界に対する限定された視界(テレビ)であることをやめて、無限に広がる情報ネットワークの結節点のひとつになるだろう。これまでのテレビアニメにおいては、例えば、『鉄腕アトム』を見た子供たちが明治製菓のお菓子を買い、『鉄人28号』を見た子供たちがグリコのお菓子を買ったりしたわけだが、今日においては、『けいおん!』を見た人たちがギターやベースを買う。これは、アニメ作品が広告に堕したことを意味するのではなく、単に、広告の情報ネットワークとアニメの情報ネットワークとが、ある部分において、交差しただけのことである。京アニは、ギターやベースを売ろうとしているわけではなく、アニメの情報と現実の情報とを交換・流通させようとしているだけである。


 このような京アニの欲望は、アニメのリアリズムの要求と密接に関わっているだろうが、そこでのリアリズムというものは、自然の運動の模倣という点にあるのではなく、日常生活を構成する情報の処理にある。情報量を高めることによって、アニメのリアリティを引き上げているのである。しかし、京アニのアニメにおいては、あらゆるものがリアルに描かれているわけではなく、ある特定の部分だけ過度にリアルに描かれている。そのような絶妙なバランスによって出来上がっているのが、京都アニメーションという工房で生み出された工芸品、職人芸的な情報の束としてのアニメ作品である。


 われわれの住んでいるこの世界においては、果たして、どれだけのものが自然のものであり、どれだけのものが人工のものなのだろうか。この問いは、果たしてどれだけのものが自明なものであり、どれだけのものが自明なものではないのかという問いとほとんど同じであるが、自然なものがひとつひとつ人工的なものへと、つまり、デジタルな情報へと還元されていっているのが現代の文明社会の方向性であるだろう。アニメーションというものは人工的なものに他ならないだろうが、デジタル技術の発達は、こうした人工性の意味合いを大きく変えていくことだろう。こうした点でも、「人の造りしもの」というテーマを前面に打ち出している『エヴァンゲリオン』が最後のテレビアニメになりうる資格を十分に備えているように思えるのである。