日常系の地平としての世界の果て――『けいおん!』と対話する『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』

 『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』は2010年の1月から3月にかけて放送されたアニメ作品である。つまり、この作品は、2010年代の冒頭に出てきたのであり、「アニメノチカラ」と名づけられたアニメシリーズの最初の作品ということから考えても、何らかの形で新しいアニメの可能性を模索しようとしていたと言える。「アニメノチカラ」という言葉には、おそらく、次のような危機意識が反映されていることだろう。すなわち、現在のアニメ(特にテレビアニメ)は、それが以前持っていた可能性の多くを見失ってしまった。アニメにはもっと豊かな可能性があったはずだ。その豊かさを、アニメの力を再発見すべきだ、といったような危機意識である。


 『ソラノヲト』に見出されたアニメの可能性がどのようなものであったのかということとは別に、アニメという言葉が、その一般名詞の使用法とは違って、どのような特殊な意味を持ちうるのか、具体的にどのような特定の作品傾向をイメージさせるのか、ということは大きな問題であるだろう。「アニメノチカラ」といったときに想起されているのは、おそらくひとつの作品傾向であり、そこで仮想敵として想定されている現在のアニメも、ひとつの作品傾向を指しているにすぎないことだろう。「アニメノチカラ」というプロジェクトが成功したのかどうか、いったいそこでどのような可能性が切り開かれたのかということを考える前に、そもそも『ソラノヲト』がどのような作品であったのか、どのような文脈の下で出てきた作品なのかということを振り返ってみたい。





 『ソラノヲト』には「世界の果て」という言葉が出てくる。「世界の果て」は第5話のサブタイトルにもなっていて、人が住める場所の限界がこのような言葉で呼ばれる。『ソラノヲト』は一度文明が滅んだ後の世界が舞台になっていて、人類は衰退へと向かっている。この作品には終末的な雰囲気が漂っているわけである。


 「世界の果て」はセカイ系的な言葉だとも言えるが、『ソラノヲト』をセカイ系と呼ぶことはできないだろう。むしろ、『ソラノヲト』は日常系の作品だと言える。そうした作品において、「世界の果て」という言葉が出てくるところが興味深いわけだが、それでは、この言葉には、いったい、どのような意味合いが込められているのだろうか。


 「世界っていう言葉がある。私は中学の頃まで、世界っていうのはケータイの電波が届く場所なんだって漠然と思っていた」。これは、『ほしのこえ』の冒頭の有名な台詞であるが、ここにおいて、世界という言葉は、意図的に矮小化されて捉えられている。ケータイの電波が届く範囲の外にも世界が広がっていることは自明である。だとしても、その外と「私」とはほとんど関係がない。だから、「私」と関わりのある範囲がすなわち世界であると、こんなふうに世界という言葉が限定される。もちろん、こうした意図的な矮小化に対して『ほしのこえ』がもたらした捻りとは、8光年という長大な距離でもケータイの電波が届く、ということである。つまり、ここでは、逆説的な仕方で、世界の広大さが示されると同時に、「私」の可能性の大きさも示されているのである。


 『ソラノヲト』において、「世界の果て」という言葉は、人類の限界を指し示す。それは人間の可能性の限界だと言える。人間は、これ以上、発展もしないし展開もしない。つまり、人間に未来はない。「世界の果て」と名づけられた国境線、ノーマンズランドの砂漠の風景が指し示しているのはそのような限界であるだろう。こうした希望のない状況下で生きていくことの意味とは何なのか。『ソラノヲト』が提示しているのはこのような問いであるだろう。もっと言えば、無意味な生の意味とでも言うべきものがここでは問われていると言える。


 もちろん、こうした世界観は、現代の人類、少なくとも現代の日本人に対する観点をも示していることだろう。人類は衰退している、文明が衰退しているというところにリアリティを持てるかどうかというところが、この作品を鑑賞するにあたってのポイントとなる。人類は衰退しているというふうに大げさに考えなくても、人々の生きるエネルギーのようなものが衰弱しているのではないかといったような実感がここにはあることだろう。似たような実感を描いたアニメ作品はすでにいくつかある。例えば、2008年から2009年にかけて放送された『キャシャーン Sins』。この作品では、人間の文明はすでに衰退し、その代わりに出てきたロボットたちの文明もまた衰退しているという形で、世界の終わりが描かれていた。また、同じ2008年には、『スカイ・クロラ』という作品もあった。そこでは、変化も進展もない世界で永遠に生き続ける人たちの生、倦怠としての生が描かれていた。


 こうした似たような作品と比べてみると、同じように人類の衰退という状況下にありながらも、『ソラノヲト』にはペシミズムや絶望感といったものを見出すことはできない。むしろ、『ソラノヲト』が示しているのは、人類の衰退、世界の終わりという状況にあってもなお、世界は美しいという感慨である(ノーマンズランドの日没の風景は美しい風景として提示されていることだろう。こうしたところにこそセカイ系の片鱗を窺うことができる)。あるいは、人類が衰退しているからこそ世界が美しく見えるのかも知れない。さらに言えば、『ソラノヲト』が示しているのは、そんなふうに人類が衰退し、人間の生に無意味さが付きまとうようになったからこそ、日常の輝きが再発見されるようになった、ということである。これこそが日常系の観点である。


 こうした点で、『ソラノヲト』は(日常系の代表的な作品と言える)『けいおん!』と一緒に見られるべき作品であり*1、『けいおん』の一期と二期との間に挟まれて放送されたことはほとんど必然だとも言える。『ソラノヲト』が『けいおん』に対して批評的な観点を持ち合わせているとすれば、それは、『けいおん』の日常の輝きが可能となるための条件を明示しているところにあるだろう。つまり、日常の輝きの裏面には、人類の衰退という事態が、世界にはもう大きな変化は訪れないという諦念がある、ということである。


 『ソラノヲト』が『けいおん』に最も近づいた瞬間とは、もちろん第2話、廃墟となった校舎の音楽室で、主人公のカナタが、別にありえた自分たちの日常、放課後の音楽室で楽器を演奏する自分たちの姿を夢想する場面である(これは厳密に言えば夢想ではないかも知れない。というのは、カナタは学生服のことなど知らないだろうから。これは世界の別の可能性が垣間見られた瞬間だと言ったほうがいいかも知れない)。第1121号要塞、通称・時告げ砦がもともとは学校であったという設定は重要である。そのことが暗に示しているのは、『ソラノヲト』が学園日常もの、『けいおん』と同じような作品だ、ということである。カナタたち第1121小隊のメンバーの年齢は14歳から18歳であり、中学生か高校生の年齢である。彼女たちがもし現代の日本に生まれていたとしたら、『けいおん』の唯たちのように、放課後の音楽室で楽器を演奏していたかも知れない。そうした可能性が第2話で示されているわけだが、それ以上に示唆されているのは、『ソラノヲト』で描かれる時告げ砦の日常生活もまた、『けいおん』と似たような水準で捉える必要がある、ということである。


 『ソラノヲト』が描き出しているのは、日常系作品に限らず、いわゆる学園を舞台にしたアニメ作品などで日々行なわれているようなことが、別の場所で別の形を取って再現されている、ということである。『けいおん』の唯が軽音楽部に入ったのと同じように、カナタは軍隊に入りラッパ吹きとなる。第2話で校舎を探索するエピソードは一種の肝試しと考えられるだろうし、第5話の監視装置をチェックする任務は、作中で語られていたように、遠足と考えられる。第6話のギャングを演じる話は、その演じるというところに注目すれば、文化祭の出し物のように捉えることができるし、第7話ではお盆が描かれていた。つまるところ、『ソラノヲト』では、学園ものの作品に出てくる諸々のイベントが、まったく別の状況下で再現されているのであり、この距離感のうちに、『ソラノヲト』の批評性を見出すことができる。


 つまるところ、『ソラノヲト』は、日常系の地平のうちに世界の果てを見出したと言える。学校、部室、生徒会室などといった日常を送るための場所こそが世界の果てであり、上記した『ほしのこえ』と同じ意味で、そこが世界のすべてだと言える。こうした点で、2010年の初めに世界の果てを示した作品が『ソラノヲト』だったとすれば、2010年の終わりに世界の果てを示していたのは『侵略!イカ娘』だったと言える。『イカ娘』において世界の果ては海岸線として示されていた。海の向こうは、『ソラノヲト』で言えば、ノーマンズランドである。海岸線という場所で、夏休みがいつまでも続く限りにおいて、日常の戯れも継続する。海の向こうという彼方からやってきたイカ娘が、彼女が自分で言うとおりに、ひとりの使者だとすれば、彼女は人類に何を伝えようとしているのだろうか。『イカ娘』において重要なのはそのメッセージではなく、メッセージが届かない限りにおいて日常は続く、ということだろう(これは、『Angel Beats!』において、この世界に満足しない限りにおいて、学園に留まり続けることができるというのと同じである)。カフカの断章に「皇帝の使者」と呼ばれるものがあるが、それと同様に、使者としてのイカ娘のメッセージはいつまでも届くことはなく、この届かないという地点に世界の果てを見出すことができるのである。


 翻って『ソラノヲト』のことを考えてみれば、『ソラノヲト』はやはり、メッセージが届くことの重要性を示している作品だと言える。最終回である第12話は、ノーマンズランドでの戦闘が描かれたわけだが、対峙していた二つの軍隊を止めることになるのは、停戦を知らせるラッパの音ではなく、『アメイジング・グレイス』の曲であった(このシーンは、もちろん、『風の谷のナウシカ』において、王蟲の大群を止めるために群れの先頭に舞い降りたナウシカの無垢な行為を想起させる)。この作品で、言語の壁や時間の壁を乗り越えて届くものとして示されているのが音楽である。もちろん、音楽というのは象徴であり、ここで示唆されているのは人間の可能性であるだろう。人間は、自分がそう思っているよりも、遙か遠くへ進むことができる。こうした希望がここでは示されていると言える。


 だが、『ソラノヲト』では、人類の衰退は止まり、世界の終わりは回避されるだろうという希望的観測が最後に示されているようには思えない。むしろ、『ソラノヲト』では、人類は衰退するだろうが、それでもなお、人間は生き続け、人間の可能性は遠くに届いていく、ということが示されているように思う(こうした音楽の超越性を印象深く描いている場面として10話の最後を上げることができる。そこではリオとカナタとが『アメイジング・グレイス』を合奏し、その音楽が街中へと響き渡るわけだが、この音楽は、二人がラッパから口を離した後でも、BGMとして鳴り続ける。つまり、ここでは演奏者から切り離されて、どこまでも響き渡っていく超越的な音楽が示されているわけである)。これは、音楽をモチーフにしている点でも、ある種、マクロス・シリーズに通じるところがある。少なくとも、『超時空要塞マクロス』の劇場版、『愛・おぼえていますか』で描かれていたのは、以前の文明(プロトカルチャー)が残した歌が新しい文明においても伝わるということであった(そして、歌が戦闘意欲を萎えさせるというところも同じである)。


 こんなふうに人間の可能性を称揚する点で、『ソラノヲト』をロマンティックな作品と悪く言うこともできるだろうし、また、悪の矮小化こそが『ソラノヲト』の欠点だと言うこともできるだろう。というのは、この作品のほとんど唯一の悪人と言えるホプキンス大佐の役割がかなり低く見積もられていると思われるからだ。『ソラノヲト』において、戦争を積極的に行なおうと考えている人物はこのホプキンス大佐ぐらいしか見当たらない。第12話で対峙していた兵士たちも、停戦の知らせがやってくると、みな、戦争しなくていいと喜ぶ。誰もが戦争を望まない状況において、ただひとり戦争を望むホプキンス大佐は一種の狂人だと考えられるが、この狂気を安く見積もるべきではないだろう。ホプキンス大佐の言い分とは、人類を発展させるためには戦争が必要だ、というものである。つまり、ホプキンス大佐は、人類の衰退、世界の終わりを止めようとしている人物だと考えられる。ここにおいて倫理的な選択が提示される。人類の衰退を止めるために人殺しをするか、それとも、人殺しをしないために人類の衰退を甘受するか。これは極端な二者択一であるが(というのも、作中で、戦争こそが人類の衰退を招いた原因として語られているからだが)、この作品においては、もちろん、後者が選択されたと考えるべきだろう。つまり、人類の歴史よりもこの日常のほうが価値があると判断されたわけである。


 しかし、人類はそんなに素直に自身の衰退を受け入れられるのだろうか。例えば、旧時代の遺物であるタケミカヅチを蘇らせようとするノエルの欲望とは、人類の衰退に抵抗しようとする欲望なのではないのか。タケミカヅチはまさしく兵器である。そうした意味においては、タケミカヅチの復活は、『風の谷のナウシカ』で言えば、巨神兵を蘇らせようとするのと同じなのではないのか。ノエルのうちにあるのは単なる好奇心かも知れない。しかし、そのような人間の探究心こそが、科学技術を発展させ、近代兵器を生み出し、戦争による災禍を生み出したのではないのか。


 人類の衰退に対して抵抗しようとする意志。その点に関して、『ソラノヲト』は、日常における抵抗や日常における闘争というものにもっと目を向けるべきだったのかも知れない。そうした試みはまさに『けいおん』においてなされていることであり、『ソラノヲト』が『けいおん』に対して批評的な作品であったとしても、『ソラノヲト』は自身の作品のうちでその批評的観点を完遂していなかったのではないか。というのも、『ソラノヲト』は、奇跡を描き出すにあたって、戦争の回避という大きな出来事をやはり持ち出してきているように思われるからだ(言い換えれば、『ソラノヲト』においては、日常が徹底されることはなかった)。


 空の音は時間や空間を飛び越えていつまでも鳴り響く。『ソラノヲト』で示された音楽の可能性(人間の可能性)がこのように壮大なものだとしたら、『けいおん』で演奏された音楽はどこに届いたと言うのだろうか。『けいおん』二期のラストの台詞、「あんまりうまくないですね」の反復を考慮に入れるとすれば、唯から梓へという伝達こそが、『けいおん』で成し遂げられたことだろう。これは、『ソラノヲト』で示された奇跡と比べるならば、非常に微々たる変化だと言える。一方では戦争が回避されたのに対し、他方ではひとりの少女を感動させたにすぎない。


 しかし、『ソラノヲト』の出発点においてもまた、イリアの演奏が少女だったカナタに届くという小さな出来事が描かれていなかっただろうか。そうした意味において、『けいおん』で示されていたのは、奇跡という観点の変更だったと言える。つまり、音楽によって人々が戦争をやめたという大きな変化をもたらすことだけが奇跡なのではなく、日常における出会い、無数の出会いの可能性があったにも関わらず、この出会いが実現したということへの驚きのうちに奇跡が見出されるということである(人は常に誰かと出会っているということで言えば、出会いなどというものはありふれた出来事である。しかし、無数の可能性がある中で、この出会いが実現したというふうに視点をずらせば、そこに、ありえないことが起きたという奇跡を見出すことができる)。


 『ソラノヲト』をこうした出会いという観点から見てみるならば、大きな枠組みにおいては、この作品は、カナタとリオとの出会いを描いていると言える。そして、それを媒介する役割としてイリアの存在があり、『アメイジング・グレイス』の曲がある。カナタは、自分の人生に大きな影響を与えた人物と音楽を、思いがけない場所で再び見出すのである。ここでカナタは何か大きな流れを見出す。それは、過去に何か出来事が起こり、その出来事の反復として現在があり、その反復のうちに自分たちが巻き込まれているというような認識である。「炎の乙女」の伝説が示しているのもそのような反復であるだろう(炎の乙女はカナタたち第1121小隊のメンバーの姿で描かれる)。


 「変わらないんだ」というカナタの台詞に示されているように、ここには、普遍的なものに対する信仰がある。こうした普遍という観点からするならば、人類の衰退というのもそれほど決定的な出来事だとは言えなくなるかも知れない。つまり、ここで差し出されている希望とは、人類が滅んでも音楽は残る、ということである。こうした『ソラノヲト』の観点に対して、『けいおん』を再び持ち出せば、『けいおん』における音楽というものは、あくまでも副次的なものであるだろう。『けいおん』において、ある種の反復が描かれるとしても、そこにあるのは徹底的に限定された視点である。つまり、この時のこの場所でしか起こりえないことがある、ということである。


 ここに、『ソラノヲト』と『けいおん』とがすれ違う場所があるだろう。これはアクセントの違いかも知れないが、そのアクセントの違いが視点の違いとして立ち現われる。『ソラノヲト』においては反復が重視される。いつかどこかで起こった出来事がこの時のこの場所で反復されるということが強調される。それに対して、『けいおん』では、いつかどこかで起こったかも知れない出来事がこの時この場所で起こったという事実を強調する。だから、『けいおん』においては、音楽は聞いている人の心に必ず届くということが無前提に信じられているわけではない。むしろ、音楽が届いたことこそが奇跡なのである。


 『けいおん』についてはまた別の機会に問題にするとして、『ソラノヲト』についてまとめれば、この作品は、日常系に歴史的な観点をもたらしたと言えるだろう。言い換えれば、『ソラノヲト』は、日常系の外部を指し示した、と言える。そして、「アニメノチカラ」の他の二作品もまた、何らかの形で、歴史的な観点を、つまり、外的な条件を指し示そうとする意志を持っていたと言える。例えば、現在は(戦時に対する)平時であるというのが『ソラノヲト』がもたらしている視点だろう(平時という条件においてのみ日常系は成り立ちうる、と)。しかし、これは、逆に言えば、戦争という特別な出来事をあまりにも意識した視点だと言える。そして、このことは、この戦争というモチーフが、もっと言えば、太平洋戦争という日本の経験が、戦後のサブカルチャーに大きな刻印を残していて、現在においても、この戦争イメージから抜け出すことがほとんどできていないということを示している。しかし、この戦争イメージは、サブカルチャーにとって、そこから抜け出したりそれを乗り越えたりするようなものではなく、常に対峙すべき条件なのかも知れない。『ソラノヲト』は、そうした戦争イメージとアニメとが密接な関係にあることを如実に示している作品だとも言える。戦後65年目の年を最初に飾ったアニメ作品、それが『ソラノヲト』である。

*1:ソラノヲト』が、『けいおん』を仮想敵とまでは言わないまでも、重要な対話者と見なしているであろうことが暗示されている記事として、以下を参照のこと。「アニメでも箱庭は作らない 「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト」監督に聞く」(ASCII.jp)http://ascii.jp/elem/000/000/533/533685/