創造性の解放としての「脱出」――映画『インサイド』について

 しばらく前に、『インサイド』(2023)という映画を見た。

 

 映画を見終わってから、僕は、自分が以前に書いた文章のことを思い出していた。2022年に書いた「ニヒリズムの微光の下で」という論考である(『セカンドアフター vol.4』所収)。

 

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 この論考の中で僕は、いくつかの観点から、2021年のカルチャーを取り上げた。そのひとつの観点が「脱出」である。

 

 「脱出」を論じるにあたって中心的に問題にしたのは『Sonny Boy』(2021)というアニメである。これは異世界転移型の漂流もの(学校ごと異世界に転移してしまう)であり、その意味では、そこで課題になっていたのは「脱出」というよりも「帰還」だったと言える。しかし僕は、そうではなく「脱出」が問題なのだ、と主張した。

 

 「帰還」と「脱出」では何が違うのか。細かい話になるので、ここでは説明しない。簡単に言ってしまえば、「脱出」という言葉で問われているのは、社会的現実の圧力からどうやって逃れるか、ということである。

 

 「脱出」という主題を考えるにあたって、論考の中で僕は、いろいろなフィクション、特に映画作品を参照した。それは、シチュエーション・サスペンスとでも呼ぶべき作品群で、デスゲームものでもある。

 

 主人公たちが、理由はよくわからないが、どこかに閉じ込められていて、何らかのゲームをするように強いられる。そういう作品群である。

 

 このジャンルの代表作に『キューブ』(1997)がある。『キューブ』は、多数の立方体からなる巨大な構造体に閉じ込められた人々が、そこから脱出しようとする物語である。

 

 興味深い点として『キューブ』では、なぜ彼らがそこに閉じ込められたのかという背景的な説明がほとんどなされない。ただシチュエーションだけが示されて、脱出に向けた過程だけが描かれるのである。

 

 こんなふうに、シチュエーションが極度に限定されていて、かつ、背景の物語が乏しい作品は、ある種の哲学的な問いを投げかけているように思えるところがある。

 

 サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』がそうであるような、形而上学的な文学作品に通じるところがある、ということだ。この戯曲では、誰かを待ち続けるという限定的な状況だけが示されることで、神の不在という状況下において行き場所を失った人間の姿が寓意的に描き出されていた。

 

 こうした点から言って、映画『インサイド』もまた、「脱出」を主題にした形而上学的な作品と見なせるところがあるのだ。

 

 

 『インサイド』は、美術品の泥棒である主人公のネモが、富豪の邸宅(高層ビルの屋上のペントハウス)に飾られている作品(エゴン・シーレの絵画)を盗み出そうと潜入するところから始まる。家の持ち主は海外出張で長期間留守にしているらしい。

 

 絵を手に入れて逃げ出そうとした矢先、セキュリティの誤作動によって、ネモは部屋に閉じ込められてしまう。誰もやってくることがないまま、何週間も、彼は部屋の中でひとりで生活し、そこから抜け出す方法を模索し続ける。最終的にネモは、天窓を破壊して、そこから外に出ていく。

 

 こんなふうにストーリー自体はとてもシンプルである。登場人物も実質的に主人公しかいないし、必然、台詞も少ない。

 

 しかし、シンプルであるからこそ、この映画の寓話性が際立つ。そしてそれが何を寓意しているのかを考え出すと、とたんに難しさが生じてくる。

 

 もちろん、ここで生じる難しさは、作品を見ている側の「解釈」の問題だとも言える。脱出までの過程を描いたサスペンス映画と見れば、そこには大した深みはない。

 

 そうは言っても他方で『インサイド』は、いろいろと謎めいたほのめかしが散りばめられている映画でもある。そうした要素をつなげて考察していけば、何らかの奥深い意味を発見できるかもしれない。

 

 しかしここではそうした「考察」ではなく、この映画の寓意性からどのような解釈を引き出せるかについて考えてみたい。

 

 

 まず、素朴な問いを提起してみよう。この映画のタイトルが示す「インサイド」とは、何の「内側」なのだろうか。

 

 もちろん映像に示されていることを言えば、それは、部屋の内側である。しかし、寓話として考えれば、どうか。

 

 僕の解釈とはこうだ。それは「他人の頭の中」ではないのか。

 

 ネモが侵入した部屋には美術品を始めとして、多くの物品が置かれている。こうした品々は、その持ち主がどのような人間であるかを示す断片の集積である。そうした意味で、他人の部屋に入るというのは、そこに住んでいる人の頭の中を覗いているようなものだと言えるところがある。

 

 他人の頭の中に入って、ネモは何をするのか。彼が最初に目的としていたのは「盗み」だ。寓意的に言えば、それは、他人の創造性を盗むということになるだろう。

 

 この意味で、『インサイド』で真に問題になっているのは、芸術における創造性であるように僕には思えたのだ。

 

 最初ネモは、他人の頭の中に入って、その創造性を盗もうとする。それは、一種の盗作行為のようなものである。しかし、次第に彼は、自分オリジナルの創造力に目覚めていく。そうした物語がここでは展開されているように思えたのだ。

 

 映画の冒頭に、次のような印象的な台詞がある(この言葉は最後にも繰り返される)。

 

子供のころ、先生が聞いた。「家が火事になったときに3つのものを持って逃げるとすれば、何を持っていくか?」。私はこう答えた。「スケッチブック、AC/DCのアルバム、そして猫のグルーチョ」。もちろん他のほとんどの子供たちは、両親だとか姉妹だとか言ったが、私はそうは言わなかった。これで私は悪人ということになるのだろうか。猫は死んだし、AC/DCのアルバムはコジョって奴に貸したら二度と戻ってこなかった。でもスケッチブックは残っている。猫は死に、音楽は消え去る。でも芸術はずっとある(art is for keeps)。

 

 実際この言葉の通り、ネモが時おり、小さなメモ帳のようなものに鉛筆で絵を描いているシーンが何度か出てくる。ここから以下のような推察が成り立つ。

 

 ネモは、芸術家を志していた時代、少なくとも、絵を描くことを始めとした何らかの創作活動に打ち込んでいた時期があったのではないだろうか。そして、それをある時に断念したがゆえに、芸術作品を盗み出す仕事をするようになったのではないだろうか。オリジナルの芸術作品を作り出すのをやめて、他人の創作物を盗むようになった、ということである。

 

 そうした意味で、この映画は、ネモが「盗むこと」から再び「創ること」へと移行する過程を描いていると解釈できる。

 

 どんな人であっても、ゼロから何かを作り出すことはできないだろう。まずは他人の作品の模倣から出発するのではないだろうか。作品を「盗む」という行為は、そうした模倣行為を示唆しているようにも思える。

 

 こうした意味で、ネモはまず「他人の頭の中」に入る必要があった。しかしいつまでも「他人の頭の中」に居続けるわけにはいかない。いずれそこから外に出ていく必要がある。

 

 彼の苦悩、部屋に閉じ込められた苦悩とは、他人の影響の外へと抜け出せない苦しみ、自分独自の足場を確立できないことの苦しみのように見えてくる。

 

 ネモは、ある時から、部屋の壁に絵を描いたり、奇妙な祭壇を作ったりする。これは単なる暇つぶしというのではなく、他人の作品に触発されて、自分でも何かを作り出そうとした創作衝動の表れと考えられる。

 

 そもそも創作衝動とは何だろうか。なぜ人は、芸術作品を作りたいと思うのか。

 

 その理由は、この映画が描いているように、この世界に自分が閉じ込められていて、自由を失っている、その息苦しさから逃れたいと思うからではないだろうか。その意味で言えば、創作衝動とは自己解放の衝動である。

 

 

 最終的に、主人公が天窓を突き破って脱出するシーンは、自分の創造性を解放する象徴的な瞬間として読み取れる。他人の世界から外に出た、というわけだ。

 

 さらに大きな視点で見ると、この「部屋」は現実世界そのもの、人間の生涯のメタファーとしても読み取れる。

 

 ネモは、彼の苦悩を表現した創作物を後に残して、部屋から去っていく。つまり、創作物とは、作者の生の残存物である。その人物がこの世界でどのように生きたのか、どのような喜びや苦しみを味わったのか、そうしたもろもろの痕跡である。

 

 映画では、食べ物や飲み水がないこと、そして孤独の苦しみが描かれるが、それ以上に、創作の苦しみの比喩として、自分自身の足場を築くことの困難さが強調して描かれていた。

 

 自分独自の作品を作るためには、まずは、しっかりとした足場を築く必要がある。しっかりとした足場がなければ、出口(天窓)には辿り着けない。実際ネモは、不安定な足場から転げ落ち、足を引きずるようになった。

 

 「他人の頭の中」から外に出ていくことの困難さ。それは、高みに達することの困難さであり、足場を地道に築いていかなければならない困難さでもある。

 

 ネモは、足場を築くために、部屋の中にあるありとあらゆるものを利用した。ほとんどすべてのものを破壊して、脱出のための手段(道具)に変形させたのだ。

 

 創作行為とは何であるのか。それがここに端的に示されている。つまり、創作とは何よりもまず破壊行為なのである。

 

 創造=破壊によって、人は、この世界から「脱出」する。自由になる。ネモも最後にこう言っている。「破壊のない創造はない(there’s no creation whithout destruction)」と。