メディアミックス時代におけるアニメ視聴――二次創作の目指すもの

 今日、メディアミックスという言葉を抜きにしては、日本で新しく作られる商業アニメ(芸術アニメに対する)について語ることはほとんど不可能であるだろう。メディアミックスという言葉を仮に知らなかったとしても、われわれは、TVで放送されているアニメについて語るとき、必然的に、そのアニメの外部の情報をいろいろと持ち込んで、そのアニメについて語るということを行なっているのではないだろうか? アニメというものをひとつの情報体として考えるのなら、その情報体は、それだけで完結してはおらず、常に他の情報体と強く結びついている。情報体と情報体と結ぶ線は無数にある。アニメ化された作品と原作とを結ぶ線だけでなく、主題歌や声優、制作会社や監督といったものも、情報体と情報体とを結びつける複数の線であるだろう。


 この点から、いわゆるメディアミックス戦略(とりわけ商業的な意味における)というものは、情報体と情報体とを結ぶ複線の線から特定のいくつかの線を意図的に明確化することだと言える。「アニメとマンガとゲームは別の情報媒体である」という常識的な考えをいかに破壊するか、ということがそこでの課題となっているように思える。メディアミックスにおいては、非常に乱暴に、アニメとマンガとゲームとを同一の地平に置こうという意図が働いている。個々の作品が持っていた閉鎖性を開放し、それまでひとつの全体(「世界」という言葉を使ってもいいだろう)だったものを、もっと大きなものの部分にしてしまうのである。


 アニメとラジオを結ぶ線のひとつが声優の声であるだろうし、アニメとマンガを結ぶ線のひとつがキャラクターのデザインであるだろう。しかしながら、いったい、何が、ひとつの作品世界の同一性を支えているのだろうか? これは、何がキャラクターの同一性を支えているのか、という問いとほとんど同じである。声が重要でもないし(マンガには声はない)、ヴィジュアルが重要でもない(ラジオにはヴィジュアルがない)。しかしながら、受け手の側は、それぞれのメディアにおいて欠けているものを自分たちの手で補完しようとすることだろう。ヴィジュアルをイメージしながらラジオを聞き、声優の声を思い出しながらマンガを読むことだろう。これこそが、個々の作品がひとつの全体ではなく、単なる部分にすぎないことの証拠である。ひとつひとつの作品はそれ自体としては不完全であり、常に開放状態にあるのだ。


 例えば、『魔法先生ネギま!』から『ネギま!?』へ、という二つのアニメ作品における移行を考えてみよう。昨年放送されたアニメ『魔法先生ネギま!』は、非常にクオリティの低い作品として認知されているが、おそらく、そのことが、今回の新作『ネギま!?』を生み出した原因のひとつだと考えられる(『ネギま!?』の制作スタッフは一新されている)。だとするならば、前作のアニメ『ネギま』に対する不満というのは、単に「このアニメはクオリティが低い」という不満に留まらず、「これは非常に出来の悪い『ネギま』だ」というものではなかっただろうか? それは、原作のマンガを忠実に再現していないという意味ではなく、本来ありうべき理想のアニメとしての『ネギま』ではない、ということである。この『ネギま』ではなく、あの『ネギま』。こうした感覚を多くの人はさほど不自然だと思わないかも知れないが、このような感覚は、あらゆる作品が始めから二次創作の水準に位置づけられているメディアミックス状況に特有のものだと言えるだろう。新作『ネギま』も、旧作『ネギま』も、『ネギま』という作品世界の全体からすれば、ひとつの部分にしかすぎず、場合によっては、「新しい『ネギま』が生み出されるのだとすれば、古い『ネギま』はもう必要ない」と言うことも可能になってくるのである。ここには、もはや、代替不可能な大文字の「作品」という観念は存在しないことだろう。


 個々の作品が持っている情報上の欠損ということで言えば、OVA版の『くじびきアンバランス』からTV版の『くじびきアンバランス』への移行ということについてもよく考えてみるべきだろう。OVA版の『くじアン』は、周知の通り、『げんしけん』のマンガのアニメ化に際して派生したものである。そして、そこにおいて、情報の欠損というものは、この作品に最初から内在していたものだった。『げんしけん』のマンガで提示される『くじアン』の情報は部分的なものにすぎず、それを補完するような形でアニメの『くじアン』が作られたのは間違いない。想像上の存在だった『くじアン』が具体的な肉体を与えられたのである。


 こうした化肉化は、『デ・ジ・キャラット』や『びんちょうタン』といったキャラクターから派生して作られたアニメについても言えることである。ここにあるのはひとつの思考の逆転である。通常、ある作品の中からキャラクターが生み出されるのだから、デ・ジ・キャラットびんちょうタンにも、そのキャラクターが収まるべき作品があるはずだ、という思考法である。キャラクターがキャラクターとして成立するのは、そのキャラクターが全体としての作品世界の部分として捉えられたときである、ということが言えるのではないだろうか?


 『くじアン』もまた、キャラクターから物語が作られていった作品だと言えそうである。そして、この物語の創造は、すでに、『げんしけん』のマンガの中で行なわれていたことであり、『げんしけん』のマンガもまた『くじびきアンバランス』の二次創作を行なっていた、ということは言えるだろう。そして、さらに、OVA版の『くじアン』が『げんしけん』版の『くじアン』を補完したわけだが、まさに、この点で、OVA版の『くじアン』とTV版の『くじアン』とは、同じ二次創作ではあっても、まったく違ったポジションを取っているのである。というのは、OVA版の『くじアン』が『げんしけん』版の『くじアン』と同じ作品世界を共有しているのに対して、TV版のほうは、まったく別の『くじアン』の二次創作を行なっているからである。


 ネットを見ていると、TV版の『くじアン』に対して不満を言っている人がちらほらといたが、その不満は、アニメのクオリティに対する不満なのではなく(むしろTV版のアニメのクオリティは非常に高いと言えるだろう)、ありうべき二次創作を行なっていない、という不満のように思われる。サイドストーリー的な二次創作において重要なことは、オリジナルの作品のどの時点で二次創作を行なうのかということだろう。物語が進むにつれて登場人物の人間関係が大きく変わってくる作品というのもあるだろうから、その場合、物語のどの時点で二次創作を行なうのかによって、そこで生み出される作品の印象も大きく異なってくることだろう。つまり、ひとつの作品の内部にもすでに複数の作品が潜んでいるのであり、ひとりのキャラクターの内部にも複数のキャラクターが潜んでいるのである。この点で、二次創作とは、オリジナルの作品の内部に眠っている作品の別の可能性を引き出す行為だと言える。OVA版の『くじアン』とTV版の『くじアン』との違いとは、つまるところ、OVA版のほうがそのオリジナルを『げんしけん』のマンガに求めているのに対して、TV版のほうは、そのオリジナルを、『げんしけん』のマンガを越えて、架空の地点に求めているところにあるだろう。TV版の『くじアン』が示したことは、『げんしけん』が汲み尽くしてはいない『くじアン』のリソースが別に存在している、ということなのである(言うなれば、週刊少年マガヅンに連載されている黒木優のマンガも二次創作のひとつにすぎない可能性がある、ということである)。


 メディアミックス作品の開放性と閉鎖性。しかしながら、今日の状況においては、どんな作品もほとんど強制的に開放されてしまうことだろう。それは、文学もしかり、芸術(アート)作品もしかりである。作品や作家の固有性というものは、どんどん希薄になっていく可能性があることだろう。もはや、作家(クリエイター)の役割というものは、何かを創造することにあるのではなく、何かを再現することにあると言ったほうがいいのではないか? 二次創作者(例えばネットで「絵師」と呼ばれる人たち)の地位というものをよく考えてみる必要があるだろう。彼/彼女の役割とは、オリジナル作品を忠実に再現することではないだろう。むしろ、オリジナルよりももっとオリジナルらしい作品を作り出すことに、その意義があると言えないだろうか? オリジナルの作者もまた、ひとりの二次創作者だとすれば、本物か偽物かという議論はあまり意味がないことだろう。誰がもっとも本物に近いかということが問題なのではなく、誰がもっとも上手く再現することができるのかということが問題であるだろう。そして、このときに、再現されるべきオリジナルは誰にとっても決して判明ではないのである。誰の作品にも部分的に共通する特徴を見出すことはできるが、誰も全体を提示することはできないのである。


 「アニメの『鉄腕アトム』は偽物で、マンガのほうは本物だ」という感覚は、おそらく今日では、それほど一般的なものではないだろう。ここで要請されるのは、本物/偽物というのとは別の価値基準である。作品には描かれていない側面がある、つまり、ひとつの作品は部分的なものにすぎない。描かれていないものを見たいという欲望があり、その欲望を実現するのが二次創作である。描かれていないものがあり、それが描かれることは可能である。問題は、こんなふうに可能か不可能かというところに移行するように思うが、この点については、また別の機会によく考えてみることにしたい。