前回のエントリで映画『インサイド』を「脱出」という観点から論じたが、今回もまた、この「脱出」という主題を推し進めてみたい。
今回、取り上げたいのは、つげ義春のマンガ、その中でも夢を題材にした作品群である。
『ねじ式』(1968)が代表作であるが、つげ義春には、彼が実際に見た夢を元にした作品がいくつかある。夢がそうであるように、話のまとまりがあまりなく、物語の展開にいくつもの飛躍があるような、そうしたマンガである。
「脱出」という主題で言うならば、つげ作品には、失踪もの(蒸発もの)とでも呼べるようなマンガもある。そこで描かれているのは、現実生活からの逃亡だ。しかし、これらのマンガでは、単に逃げることよりも、むしろ「逃げ切れない」という事態が描かれることのほうが多い。
『ゲンセンカン主人』(1968)が特にそうだが、逃げ切ったと思ったとしても、後から自分を追う者がやってくる。逃げても逃げ切れない。自分を追ってくる者がいて、それに最終的には捕まってしまう。
こうした感覚で問われているのは、端的に言えば、罪責感だろう。罪の意識をどこかに抱えているからこそ、その重圧から何とか楽になりたいと思い、逃亡しようとする。しかし、罪の意識を感じているのは、他ならぬ自分自身なのだから、単に場所を移動しただけでは、罪責感から逃れ去ることはできない。自責の念はどこまでも自分を追いかけてくる。
つげ義春自身、実際に、そのような失踪経験があったことを「蒸発旅日記」というエッセイ(『貧困旅行記』所収)で書いている。一度は電車に乗って、遠くの土地に行ったとしても、そこに居つくことはできなくて、結局のところ、帰ってきてしまうという話だ。
こんなふうに元の場所に戻ってしまう空回りの経験は、『ねじ式』でも描かれている。それは、主人公の少年が汽車に乗って隣村に行こうとしても、結局同じ村に戻ってしまう、という場面だ。少年は言う。「ああ、ぼくはなんて無駄な時間をつぶしてしまったのだろう」。
こんなふうに、全般的に言えば、つげ義春のマンガでは、「脱出」が課題になっているところがあるとしても、それは、失敗を運命づけられているものとして、そうなっているのである。
*
まず、『夜が掴む』(1976)と『外のふくらみ』(1979)を見てみよう。これら2作品では、ある点において、とてもよく似た状況が描かれている。それは、「外」が部屋の中に侵入してくるという事態である。
通常、何かから「脱出」するといった場合、それは「内」から「外」へ出ていくことである。その意味で言えば、これら2つのマンガで描かれるような、「外」が「内」に侵入してくるというのは、とても奇妙な事態だと言える。「内」と「外」の境界がズレているというか、別の仕方での線引きがそこで行われようとしているのだ。
安全であるはずの家、「外」とは隔絶されているはずの家が、もはや安全な場所ではなくなり、そこは「外」が侵入してくる危険な場所になっている。
『夜が掴む』において家の中に侵入してくるのは、厳密に言えば、「外」ではなく「夜」である。しかし、「外」が部屋の「内」に侵入してくるというシチュエーション自体は同じだと言える。
部屋に侵入してくる「夜」は何らかの不安を象徴しているように読める。主人公の男が抱えている問題があり、その予感が「夜」に対する警戒という形を取る。男は言う。「おきているときはなんでもなくとも、無意識の状態で眠っていたら、そのスキに入ってくるじゃないか」。
実際、物語の最後において、パートナーに出ていかれて孤独になった男の足を、部屋に侵入してきた「夜」が掴むのである。
『外のふくらみ』では、侵入した「外」に対して、主人公は、逆に積極的な行動を取る。つまり、侵入した「外」を潜って、家の外に出ていくのである。だが「外」に出たとしても、主人公の抱く不安は拭い去れない。彼は、地下道で迷い、出口を探し求め、最終的には階段のある狭い空間にはまり込み、そこで身動きが取れなくなる。
つげ義春の『夢日記』(新潮文庫『つげ義春とぼく』所収)を読んでみると、このマンガの内容は、つげが昭和43年(1968年)12月に見た夢が元になっているようだ。その記述には、つげが感じた不安や焦燥感がより鮮明に認められる。
ふくらんだ「外」に出ようとするときには「呼吸ができず窒息しそうになる」(45頁)。また、地下道で出口を求めているときには「遠くに出口のあることがわかっているが、つのる恐怖にできるだけ近道をえらぼうとする」(46頁)。そして、階段にはまって動けなくなってしまうところでは「小さな穴から地上の光が見えるが、どうにもならず、自分がこんな穴の中にいることは、誰にも気付かれることなく、このまま死ぬのかと思うと絶望的になる」(46頁)。
これら2作品では、結局のところ、「脱出」の試みは失敗したわけだ。
しかし別の観点からすれば、こんなふうに夢を元にした取り留めのないマンガを描くこと自体が、ひとつの「脱出」の試みだと考えられなくもない。それは、「意味」の拘束から離れて、「非意味(ナンセンス)」の領域に逃れようとする試みだと言える。
*
つげ義春の別の夢マンガ『ヨシボーの犯罪』(1979)を見てみよう。
そこでは、犯罪行為を隠そうとする主人公(ヨシボー)の姿が描かれる。彼は証拠隠滅のために画策する。そのような仕方で、罪責感からの逃走が描かれる。
ヨシボーは、他人の目を気にする。あらゆる他人の目が、彼の犯罪行為を咎める目になっている。従って、彼の逃亡とは、こうした人々の目から逃れる行為だと言える。
しかしながら、この短編マンガは、興味深いことに、途中で横滑りをする。当初の(証拠隠滅という)目的が忘れ去られて、それに伴って罪責感や不安感もどこかに行ってしまう。最終的にはある種の快活さが戻ってくるのである。
ヨシボーを見る他人の目もまた、自転車に乗る彼の「颯爽とした様子」に驚く目に変化している。つまりこの瞬間では、彼は自分の姿をむしろ他人に見せつけたいのだ。
最終的に古い民家や温泉を見つけて興奮した彼は「ああ、嬉しくなっちゃった。よし、みんなに教えてあげよう」と呟いて、帰っていくのである。
『ヨシボーの犯罪』によく示されているように、夢はしばしば、話の展開を横滑りさせる。あるシチュエーションから別のシチュエーションへと、はっきりとした脈略もないまま、ぬるっと移行したりする。
『ヨシボーの犯罪』が興味深いのは、こうした横滑りに伴って、主人公の気分にも変化が生じている点である。
主人公が行き詰まり状態のままであり続ける他のつげ作品とは違って、この短編マンガでは、「脱出」が成功しているように見える。もちろん、厳密に言えば、それは単なる一時的な気晴らしのようなものなのかもしれないが。
しかしながら、横滑り的な展開が、脱出に向けてのひとつの模索だというふうに考えることもできるだろう。つまり、つげ義春の夢マンガで試みられているのは、話の道筋をどうやって逸脱させて別の方向にもっていくのか、ということなのである。
逆に『ねじ式』では、それほどの横滑り感はない。というのは、血管から流れ出る血をどうにかしなければならないという課題が最初に示され、この状態を改善してくれる医者を求めた末に、最終的には治療されるという物語上のまとまりがあるからだ。
しかし、実際のところ、『ねじ式』にも、そうした中心的な物語の展開とはほとんど関係のない挿話が随所に見られる。その点では、やはりこのマンガでも、脱線や逸脱が試みられているように思われる。
*
つげ義春の夢マンガによく似たナンセンスな作品の例として、次に、さくらももこの初期の短編マンガを検討してみたい。『神のちから』(1992)に収録されている「それてゆく会話」である。
このマンガでは、2人の男が取り留めのない会話をしている姿だけが描かれる。話題が次々と移り変わっていって、話の文脈や脈絡がなくなっていく。「〇〇といえば」という形で、前の話の一部が次の話題の始まりになる。ただそうした話の連鎖だけがあり、このマンガ全体を通して、何か結論が出てくるわけではない。つまり、続けようと思えばいくらでも続けられる話をしているだけなのである。
このマンガでは何が試みられているのか。もちろん、これは、ギャグである。そこでのおかしさは、話の部分部分の要素が全体のまとまりのうちに回収されていくという物語の基本構造をズラしているところから生じている。簡単に言ってしまえば、無限に横滑りしていく運動自体が、ナンセンスなギャグになっているのである。
別の言い方をすれば、このさくらのマンガにはメタ視点がない。話の横滑りを俯瞰的に見て、それらを総合するような視点、限られたページ数に描かれた会話の有限性、それに決定的なオチ(意味)を与えるような視点は存在しない。
もちろん厳密に言えば、このマンガを描いた作者の視点がそこにあり、同じ話が二度繰り返されていることを密かに数えているメタ視点は存在する。しかしこの視点を作中人物が自覚することはなく、同じ話を繰り返したのも単なる気のせいということになって、流されていく。これがオチになっている。
ちなみに、少し前に別の場所で公開した僕の「さくらももこ論」において、ナンセンスという観点から、さくら作品のギャグについて論じた(箇所がある)ので、興味のある方は参照してみてほしい。
つげ義春の夢マンガにも、確かにそこにはオチがある。しかし、『ヨシボーの犯罪』がそうであるように、夢の本質を横滑りに見るとするならば、それはいくらでも展開させることができるだろう。
夢のナンセンスな展開を終わらせるのは、結局のところ、その夢からの目覚めというメタ視点(いわゆる「夢オチ」)を獲得することによってでしかない。
*
議論を整理するために、ここで、ナンセンス(非意味)と意味を対比的に位置づけてみよう。
そもそも、話が「理解」されるというのは、どのような経験なのだろうか。それは、要素同士のつながりが明確になるということ、要素間のつながりに必然性があると思えることではないだろうか。
このつながりの感覚が「意味がある」と思える経験であり、「理解」をもたらす経験だと考えられる。
これに対して、ナンセンスの経験とは、逆に、要素間につながりが見出せないこと、仮にそこにつながりがあったとしても、そこに必然性が見出せないことだと言える。
要素がバラバラで、つながりが薄く、展開が横滑りしていって、まとまりに欠け、オチらしいオチもないということ。こうした状態が「意味がわからない」とか「理解できない」といった感覚を生じさせる。
もちろん、精神分析家のフロイトが論じていたように、われわれが普段見る夢は、そこに何の意味もない不条理な産物のように思えたとしても、夢を見た当人の連想を辿っていくと、その人物がその日にその夢を見た必然性、夢内容の明確な「意味」というものが明らかになってくる。
だが、夢を素材にしたフィクション(例えばマンガ)の場合、作者にとってはその要素に様々な連想が働くかもしれないとしても、読者にとってはその連関は明確ではない。それゆえにそこには、不条理さという印象が際立つことになる。
*
改めて『夜が掴む』や『外のふくらみ』について考えてみると、これらのマンガに行き詰まりの感覚があるのは、ナンセンス的な横滑りが、ある時点において、停止しているからである。特に『外のふくらみ』がそうであるように、主人公が移動できず、身動きが取れなくなると、それ以上の展開の仕様がない。
逆に考えれば、ナンセンスとは飛躍である。前後の脈略を大きく飛び越えて、大胆な移動ができる、ということである。
だから、ナンセンスにおいては、本質的に、行き詰まりは存在しないと言える。どんな時点においても、横滑りしていって、別の移動の系列を生じさせる余地が残っているということになる。
だとすれば、「脱出」の可能性とは、常に、あるシチュエーションとは別のシチュエーションへと脈絡なく移動できる軽快さに依拠していると言えるだろう。それは、さくらももこのマンガがそうであったように、脱線し続けることによっていくらでも雑談を続けられるという、その継続性への信頼にも依拠している。
どこまでも逸脱していって、それを果てしなくいつまでも続けられるということ。これこそが脱出可能性そのものであるだろう。