マンガ

空虚な「私」と再帰的自己発見

前回は、「愛されなかった子供たち」という近年のサブカルチャーに頻繁に見出すことができる主題から出発して、純愛とニヒリズムとの二極化という図式を提出した。今日のサブカルチャーには、この二面性が頻繁に見出される。過剰な不信とナイーブな信頼とが…

愛されなかった子供たち、純愛とニヒリズムとの二極化

前回は、「愛するものを守る」という価値観との関連で、今日のヒーローの無力さの問題を取り上げた。今日のヒーローに課せられた使命は、ある意味、非常に小さいものである。昔のヒーローは、全世界の危機や宇宙全体の危機を救う必要があった。それに対して…

ヒーローの無力さ、弱さ

前回は、「なぜ闘わなければならないのか」という問いの視点から、「愛するものを守る」という価値観を問題にした。「なぜ闘わなければならないのか」というふうに問いかける登場人物が、その問いを差し向けている相手は、具体的な誰かではなく、その登場人…

関節の外れた世界、二つのリアリティ

ここ数ヶ月にわたって、セカイ系と呼ばれる最近のサブカルチャーに特有の物語を考察の対象としてきたわけだが、今回は、このセカイ系の物語が備えているひとつの側面を強調してみたいと思っている。それは「愛するものを守る」という価値観である。 「愛する…

セカイ系における小状況の拡大

前回は、セカイ系と呼ばれる一連の作品群に見出される諸要素、とりわけ、記憶の想起という要素を問題化した。今回も、この記憶の想起という点から話を始めていきたい。 前回、偽の記憶(模造記憶)について少し言及したときに、記憶が個人のアイデンティティ…

セカイ系と記憶の想起

前回は、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』を取り上げて、この作品に見出すことのできる世界のあり方(日常生活とその外の世界との明確な分離)を問題にした。今回も、この点を、もっと推し進めてみたい。 『最終兵器彼女』という作品を分析するとき、おそら…

終わる予感と終わらない日常生活

近年のサブカルチャー作品において、世界の二分化という事態が起こっているということを前回指摘した。つまり、主人公たちが生活している日常世界とその外部の世界というふうに世界が二分しているわけである(自分たちの日常生活とTVの世界というふうに、こ…

世界−社会=「私」

前回からまた時間がかなり経ってしまったので、まずは、前回までの話題をまとめてみたい。 前回まで僕が問題にしていたのは、承認を巡るギャップの問題、部分的な承認と全的な承認とのギャップの問題である。「私」の存在すべてを認めてほしいにも関わらず、…

努力、友情、勝利

前回からかなり時間が経ってしまったが、今日から本格的に、「カーニヴァル化する社会」と現代アニメとの関係を問題にすることにしたい。しかし、「関係を問題にする」とは言っても、鈴木謙介の本を細かく取り上げるつもりはない。むしろ、ここでやりたいの…

傷を負った子供たち

愛とは、ある個人の固有性を重んじることである。他の人とは置き換えられない、ある個人の固有性を絶対視することである。 『新世紀エヴァンゲリオン』以降、アニメやマンガなどのサブカルチャー領域は、その様相を一変させた。『エヴァンゲリオン』以降、傷…

純愛から単性生殖へ

昨日は、純愛のことについて書いたので、今日もまた純愛の話を。 純愛の理想というのは、二人がお互いに支え合うことである。一方が他方に依存し、他方が一方に依存する。そのような循環的な相互関係を作り出すことにある。それが目指しているのは、相互承認…

高橋留美子と地方性

オタク系のアニメを見ていると、そこにひとつの傾向を見出すことができる。それは、さえない男の子のところに突然美少女が押しかけてきて、非日常的なドタバタ騒ぎが始まる、というものだ。僕はこのタイプの作品を「押しかけ女房もの」と呼んでいる。そして…

無能の人

人間という存在は、その主観性と客観性との間に、矛盾をはらんでいる。主観的に言えば、自己の存在というものは、かけがえのないものである。それは誰かの存在と取りかえることのできないものである。しかし、客観的には、ひとりの人間というだけのことであ…