セカイ系と記憶の想起



 前回は、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』を取り上げて、この作品に見出すことのできる世界のあり方(日常生活とその外の世界との明確な分離)を問題にした。今回も、この点を、もっと推し進めてみたい。


 『最終兵器彼女』という作品を分析するとき、おそらく、大状況/小状況という対概念を用いるのが有効であるだろう。大状況とは、例えば「全世界の危機」といったような大きな物語のことである(地球の平和を守るため悪の組織と闘う正義のヒーローの物語)。それに対して、小状況とは、個々人の日常生活のことであり、それは、端的に他の人間とほとんど関わりのないような小さな出来事のことである。


 昔のサブカルチャー作品と現在のサブカルチャー作品とを比較したときに、大きく異なるのは、大状況と小状況との距離だろう。昔のサブカルチャー作品(80年代くらいまでの作品)では、力点は常に大状況に置かれていた。たとえ小さな物語しかそこで描かれていなかったとしても、それは、概ね、大状況に回収されるような話だった(誰もが経験したことのある共通体験など)。しかし、90年以降、大状況と小状況との間に大きな亀裂が生じ始めた。小さな物語は、無数にある小さな物語のひとつにすぎなくなり、どこにも回収されることなく、それ自体で完結するような物語になった。それに伴い、大きな物語は、完全に消え去るか、または、「全人類の破滅」といったような極端なものしか残らなくなったのである。


 大状況と小状況とがこのように分離し出したときに、同様の流れとして、そのように分離した二つの状況を短絡的に接合する作品も現われた。それが「セカイ系」と呼ばれる一群の作品である。セカイ系は、大状況と小状況とを短絡的に結びつける。つまり、一見、小状況に見えた状況が実のところ大状況だったという発見がまさにセカイ系の物語を形作っているのである。


 新海誠のアニメ『雲のむこう、約束の場所』を取り上げてみよう。この作品で描かれている小状況は、主人公たち三人の中学生時代の思い出である。主人公のヒロキとその友人のタクヤ、そして、ヒロキが密かに思いを寄せているサユリの三人。物語は、彼ら三人の中学生時代の話とその数年後の現在の話との二部から成っている。中学生時代の話、それは完全に、小さな物語である。彼ら三人の青春時代の思い出話である。そして、現在の話もまた、小状況ではあるのだが、しかし、この小さな話が実は大きな話と結びついていることが徐々に明らかになってくる。サユリはヒロキたちと会わなくなってから、ずっと眠り続けており、彼女の夢の世界というのが、現在ある世界を侵食しているということが明らかになる。主人公たちは中学生のときにちょっとした約束をしたわけだが、その小さな約束が全世界の書き換えという大きな物語と結びついていることが明らかになるわけである。


 この小さな物語と大きな物語との短絡は何を意味しているのだろうか? まず言えることは、われわれにとって、個別的な経験というものが、ことさらに重要性を増してきた、ということである。とりわけ、そこで重要となる要素は、記憶というものである。あらゆるものが商品化され、市場化されている現在、記憶というものは、商品化を免れているわずかなもののひとつである。記憶は、他人と交換することはできないし、それがあることを他人に証明するのも難しい。それが存在することを確信できるのはその記憶を持っている「私」だけであり、そこに十全とした価値を見出すことができるのも「私」だけである。


 以上のような個別な記憶の特殊な地位といったものを考慮に入れれば、いくつかのSF作品で、他人によって作られた偽の記憶(模造記憶)といったものが問題となるのも十分に理解できることである。自分だけが知っている自分だけの記憶、まさにそうしたものが通常、われわれのアイデンティティの根拠となっているのであれば、例えば押井守の『攻殻機動隊』で描かれていたような偽の記憶は、極めてショッキングなものではないだろうか? 「私」からあらゆるものが奪われ、そして、最後に記憶まで奪われたときに(つまり「私」の固有性を支えるものが何もなくなったときに)、「果たしてこの私とはいったい何者なのだろう?」という問いが出てくるのは当然のことだろう。


 問題は、われわれにとって、個別性というものが個々人のアイデンティティを支える大きな根となるとき、記憶というものは、また極めて儚いものでもある、ということである。われわれは、しばしば、自分の記憶の(不)確かさを他人に請け合ってもらうことがあるだろう。それが自分の経験なのか、はたまた、他人の話を自分の経験と取り違えているだけなのか、はっきりしないのである。この点で、個別の経験というものは、非常に脆いものであると同時に、掛け替えのないものでもあるというアンビヴァレントなものなのである。


 こうした点で、『最終兵器彼女』のラストシーンは極めて興味深いものである。全世界が滅ぶ少し前、主人公のシュウとその彼女のちせは、人類の歴史を暗唱して記憶していく。そして、世界が終わり、二人だけが生き残る。つまり、世界のあらゆる出来事は彼らの(窮極的には主人公ひとりの)記憶の中に留まることになる。加えて、ちせは、もはや人間の姿を留めていない不気味な存在となる(シュウはこのちせの中で生き続けることになる)。しかし、シュウはちせの姿を覚えていて、その記憶の中にあるちせの姿が目の前に映し出されることになる。つまり、ここには、一種、独我論的な世界が広がっているわけである。


 こうした結末を「閉鎖的である」という点で拒絶するのではなく、「開かれたもの」として肯定的に捉えるためには、アニメ『ほしのこえ』の最後の台詞、「僕は、私は、ここにいるよ」の「ここ」がいったいどこなのかということを明確にしなければならない。素朴に考えれば、それは、記憶だと言えるだろう。数光年離れた場所から地球にいる男のもとにメールが届く。それは過去からのメールであり、彼女が昔そこにいた場所からのメールである。従って、このメールによって運ばれたメッセージは、それを受け取った男にとっては、彼の記憶の中に根拠を持つメッセージだと言えるだろう。


 だが、こうした解釈を超えて、もう一歩、進んでみるべきだろう。「ここにいる」という確信的な明言は、記憶という曖昧な場所を超えた別の場所を指し示しているのではないか? それは、記憶の具体的な内容に還元されるようなものではなく、存在の痕跡とでも言うべき、ある種の傷(世界に刻まれた傷)を指し示しているのではないか?


 「ほしのこえ」の「僕は、私は、ここにいるよ」に似た台詞は、『最終兵器彼女』にも出てくる。それは、ラスト近くに出てくる「ぼくらは、確かにここに、いた」である。いったい「ここ」とはどこだろうか? カタストロフのあと、真っ白な世界で主人公が見たのは、ちせが残した小さな落書き、二人の思い出の場所である展望台に刻まれた落書きである。それを見て、主人公は、様々な記憶を蘇らせ、上の台詞を言うわけである。主人公が落書きを見て、記憶を蘇らせたという点に注目すべきだろう。記憶だけではなく、記憶を想起させるものがそこにはあるのだ。従って、「ここ」は、記憶の中にも、具体的な場所(この場合は展望台)にも還元することはできないだろう。強いて言えば、その中間にある架空の場所を指しているのである。


 しかし、「架空」とは言っても、それは無意味な場所というわけではない。むしろ、そこは、非常に意味の詰まっている場所である。様々な想起の瞬間といったものを思い出してみよう。想起とは、感覚によって、忘れていた記憶が蘇ってくる瞬間のことである。ある場所のある風景を見たときに突如として蘇ってくる記憶、何かの匂いを嗅いだり、何かの音を耳にしたり、何かを味わうことによって蘇ってくる記憶、そうした記憶が根づく場所、それが「ここ」ではないだろうか?


 おそらく、この場所はどこにもない。どこにもないが、重要な意味を持っている。そうした確信の瞬間をセカイ系の諸作品は常に描いているのである。次回は、このような、セカイ系の諸作品に見られる、想起の瞬間といったものを検討してみることにしたい。