セカイ系における小状況の拡大



 前回は、セカイ系と呼ばれる一連の作品群に見出される諸要素、とりわけ、記憶の想起という要素を問題化した。今回も、この記憶の想起という点から話を始めていきたい。


 前回、偽の記憶(模造記憶)について少し言及したときに、記憶が個人のアイデンティティと密接に関わっていることを指摘した。今日は、この点を、もっと明確にしてみよう。


 記憶を巡る言葉として、前回、想起という言葉を持ち出してきたわけだが、忘れていた記憶を思い出すことを指し示す「想起」という言葉に対して、記憶が(一時的に)失われた状態にあることを指し示す「忘却」という言葉にも力点を置くべきだろう。記憶を巡る言葉として、想起と忘却とを対立させるわけである。そして、記憶がアイデンティティと密接な関係にあるとすれば、そうしたアイデンティティの変化は、記憶の「想起/忘却」というスイッチの切り替えによって生じることとなる。


 例えば、記憶喪失という現象を考えてみよう。記憶喪失という現象がショッキングなものであるのは、単に記憶が失われたという事実が重要なのではなく、その事実が、それまで自分がどのような存在であったかというアイデンティティの領域に関わっているからである。記憶が失われることは、まったく別の人間になってしまうことだと言っても過言ではあるまい。アニメ『エルフェンリート』が扱っているのは、そのようなアイデンティティの揺らぎである。問題は、ルーシー/にゅうという二重人格者だけではない。主人公のコウタも含めた多くの登場人物たちが、記憶の忘却/想起というスイッチの切り替えによって、アイデンティティを、さらには、人間関係を大きく変化させるのである。本来ならば、敵対関係にあるはずのルーシーとコウタとがひとつ屋根の下で平和に暮らせるのは、彼らが過去の出来事を忘れているからである。ひとたび、そのことを思い出しさえすれば、そこに待ち受けているのは、平穏な日常生活の崩壊、耐え難い残酷な現実との直面である。


 以上のことから、人間のアイデンティティというものが、個々人だけのものではなく、個々人の諸関係とも密接に関わっていることが理解されるだろう。言い換えれば、個人の記憶の想起/忘却というスイッチの切り替えは、人間関係の意味を大きく変え、そのことによって、個人のアイデンティティをも変化させるのである。このことは、人間関係の変化が個人の想起/忘却のスイッチを切り替える、というふうに逆から言うこともできるだろう。


 このような人間関係の変質は、ある種の知識の有無によっても起こりうることであろう。今まで自分の知らなかった重要な事実を知ることよって、それまで自分が築いてきた人間関係の意味が大きく変化するような場合である。旧来のヒーローものにおいて、主人公が自分の正体を隠すというよく見かける行為の意味を考えてみよう。なぜ、ヒーローたちは、自分の正体を隠すのだろうか? それは、正体が明かされることによって起こりうる人間関係の変化、その変化によって生じうる様々な波及効果を恐れるからである。


 例えば『ウルトラマン』を取り上げてみよう。もし、ハヤタ隊員がウルトラマンであることが大っぴらになったとすれば、そのとき、大きく揺らぐことになるのは、科学特捜隊ウルトラマンとの関係であるだろう。様々な事件の解決がウルトラマンの活躍に負っているとしても、ウルトラマンの出現は偶然の出来事とされている。ウルトラマンはやってくることもあるかも知れないし、やってこないこともあるかも知れない。しかし、ハヤタ隊員=ウルトラマンということが明らかになれば、ウルトラマンがやってくるのは必然的ということになり、科学特捜隊の組織としての位置づけが大きく変わってくることになるだろう。


 話を元に戻すと、記憶の忘却/想起という対立軸は、このように、何らかの事実を知っている/知らないという対立軸と重ね合わせることができる。忘却とは知らないことの特殊な形である。本当は知っているのだが、一時的に知らない状態にあるということである。知っている/知らないという対立軸においては、誰が知っていて誰が知らないのか、ということが重要であるだろう。記憶喪失の場合、記憶を失っている本人が知らないことを周囲の人間が知っているということがありうるのである。


 まさに、この知っていることと知らないこととのアンバランスさこそが、セカイ系の物語を形作っていると言える。ここで『ラーゼフォン』というアニメ作品を取り上げてみよう。この作品は、忘却と想起の表象に満ち満ちている。『ラーゼフォン』を終始貫いている感覚、それは、喉の先まで出掛かった名前がどうしても思い出せないとか、記憶の片隅に残っている人物の顔がどうしても思い出せないといったときに感じるもどかしさである。このどうしても思い出すことができないというもどかしさ、何か重要なことを自分は忘れてしまったという「忘却の記憶」こそが、セカイ系作品を彩る重要なモチーフだと言える。


 以上のことを端的に象徴しているのが、主人公の神名綾人が描き続ける一枚の絵である。それは、遠い彼方を見つめる少女の後ろ姿を描いたものである。主人公はこの少女のことを思い出すことができない。彼女がどんな顔をしているのかが分からないのである(だから後ろ姿が描かれる)。彼女の顔と名前を思い出すこと、それがこの作品の目的となるわけだが、重要なのは、いったい彼は何を忘れていたのかということよりも、むしろ、そんなふうに大事なことを忘れてしまったという忘却の記憶のほうである。記憶が問題ではなく、何かを記憶していたという記憶の痕跡が重要なのである。


 以前、問題にしたセカイ系の二つの世界(日常生活の世界とその外部の世界)という観点から、『ラーゼフォン』にアプローチしてみよう。この作品は、知識の獲得によって世界が大きく変わる、そのようなめまいの瞬間を見事に描いている。自分の立っている場所が大きく揺れ動くことによって、自分自身もまた大きく変化するわけである。


 『ラーゼフォン』の物語はこんなふうに始まる。平穏な日常生活を送っている主人公の神名綾人。彼は、友人たちと一緒に電車に乗って、模擬試験の会場へと向かう。ところが、突然、大きな振動が起こり、電車が脱線してしまう。トンネルの外に出てみると、そこでは、防衛軍が見知らぬ戦闘機と戦闘を行なっている。平穏な日常生活から戦争状態へ。この移行は、90年代に頻繁に見受けられたカタストロフものの典型的なパターンである。ここで期待される物語展開とは、マンガ『ドラゴンヘッド』のようなものだろう。修学旅行という、学生にとっては大きなイベントが終わり、また再び退屈な日常生活が始まろうとするまさにそのときに、カタストロフが到来し、危険に満ち満ちたサバイバルが始まる、というわけである。


 しかし、『ラーゼフォン』は、こうした期待を裏切るような物語展開を見せる。ストーリーが展開するにつれ、主人公に明かされるのは、次のような事実である。エイリアンの到来によって地球は、主人公が住んでいる東京近辺を除いて、そのほとんどが壊滅したはずであったが、実のところ、その外の世界はちゃんと存在すること。外の世界はエイリアンに侵略されているわけではなく、むしろ、主人公がそれまで暮らしていた東京の世界のほうがエイリアンに侵略されていたこと(東京の街の住人には記憶操作が施されていたこと)。主人公は母と二人で暮らしていたわけだが、その母が実はエイリアンの統領であること、などである。


 まず主人公が直面したこと、それは、カタストロフの外部が存在する、ということである。日常生活の終わりにカタストロフが位置づけられるとして、その先にまた、別の日常生活が存在することを発見したわけである。この感覚は、夢から覚めた夢の状態と同じであり、メタレベルが無限に続くことによって、めまいを引き起こすことだろう。


 さらに重要なのは、このような日常生活とその外部との対立に、小状況と大状況との軸が交わっている点である。このことは、主人公とその家族・友人関係が大きく変化したことに見て取れる。東京にいたとき、主人公は、小状況の中にいた。しかし、その外部に出たとき、彼は、巨大ロボットに乗って、エイリアンと闘うことになり、そのエイリアンのボスが自分の母親であり、その配下が自分の友人という状況に陥る。つまり、以前、彼が日常生活を送っていた小状況が、そっくりそのまま、大状況に移行しているのである。


 ここでの大状況と小状況との関係をじっくりと考えてみるべきだろう。主人公は、それまで自分が知らなかったことを知ることによって、その世界観を大きく変えたわけだが、単に問題を世界観の変化に還元することはできない。例えば、主人公とその母との関係を取り上げてみた場合、そこにおいて、小状況と大状況とが重ね合わされているわけである。彼と彼女とが母と子であることは間違いない。しかし、同時に、彼らは、全世界規模で、敵対もしているのである。このような距離感のなさ、奇妙な短絡こそが、セカイ系作品の示しているひとつのリアリティである。


 別の例として、『エヴァンゲリオン』の碇シンジを取り上げてみよう。この作品の興味深い点は、まさに、主人公がいつまでたっても、ヒーローにならないことである。この点で、旧来のヒーローものにおける変身の意味が理解されることだろう。ヒーローの変身が持つ意味、それは、小状況と大状況との間の明確な切断である。彼(女)が家で見せている顔と仕事場で見せている顔とは異なるというのもひとつの切断であるだろう。こうした明確な切断が『エヴァ』には欠けているのである。従って、『エヴァ』においては、日常生活における個人的な問題が全世界を巻き込む巨大な問題と合致しているのである。シンジが家族関係のことで悩んでいるとして、その悩みがそっくりそのまま、敵との戦闘においても問題になってくるのである。


 それゆえ、このような大状況と小状況との重なり合いで問題になってくるのが、一種の戸惑いである。『エヴァ』の第一話で、シンジが父から「エヴァに乗って敵と闘え」と言われたときに非常に戸惑ったのは、ロボットに乗って敵と闘うことが嫌だったからではないだろう。世界を救うために巨大ロボットに乗って敵と闘うという燃える展開に主人公が違和感を抱いたのは、そのことを自分の父が命じたからである。それまで親密な付き合いなどなかった父、自分を見捨てるようにしていなくなってしまった父が、突然、自分を呼び出し、「敵と闘え」と命じるわけである。ここには、シンジと父という個人的な関係と、パイロットと司令官という公的な関係とが重ね合わせられているわけだが、シンジにとっては、公的な関係など存在しないも同然なのである。


 セカイ系的な、大状況と小状況との重なり合いをまとめてみれば、それは、小状況の拡大というふうに言うことができるだろう。小状況が大状況のレベルにまで拡大したわけである。言い換えれば、それは、想像的な感覚的水準による象徴的な社会的水準の包摂である。感情のレベルにあるものが、社会的なルールや法則を脅かすわけである。まさに、『雲のむこう、約束の場所』で描かれていたように、夢が世界を侵食するのと同じ状態である。しかし、見方を変えてみれば、これは、社会的なルールや法則を感情のレベルによって新たに意味づけている、というふうに見ることもできるだろう。意味の分からなくなったもの、ほとんど形骸化しているものに新しい意味を吹き込むのである。そんなふうに色づけし直さなければならなくなった世界とは、いったい、どんな世界なのだろうか? なぜ、新しい色づけが必要なのだろうか?


 以上の問いに答えるためには、長い遠回りが必要だろう。次回は、今回語れなかった『ラーゼフォン』における忘却と想起の問題を扱ってみたい。