終わる予感と終わらない日常生活



 近年のサブカルチャー作品において、世界の二分化という事態が起こっているということを前回指摘した。つまり、主人公たちが生活している日常世界とその外部の世界というふうに世界が二分しているわけである(自分たちの日常生活とTVの世界というふうに、この二分化を考えてもいいだろう)。


 世界の二分化の例として最も分かりやすいのが分割統治である。第二次大戦後のドイツのように、戦勝国が敗戦国を二つ(以上)に分割して統治するのである。新海誠の『雲のむこう、約束の場所』は、まさに、この分割統治下の日本を舞台にした作品である。


 この作品の世界では、日本は、津軽海峡を境にして二つに分割されている。つまり、北海道の日本と、本州より南の日本の二つである。主人公たちが暮らしているのは南側の日本(青森県の田舎)であるが、彼らの住んでいるところからは、北の日本に建っている巨大な塔が見える。つまり、ここでの塔の役割とは、「こちら側」ではない「あちら側」を指し示す存在なのである。


 この作品で描かれるのは、終始、南側の日本だけであり、北側の日本に関しては、ほとんど描かれていない。南側の日本に関しても、主人公たちの身の周りことしか描かれていない。つまり、この作品世界における政治社会状況に関しては、断片的な情報しか伝わってこないのである。


 このような描き方が極めて重要である。問題となっているのは世界の二分化であるが、それは、単に、世界が二つある、ということではない。ひとつの境界線が引かれているということ、その境界線によって、こちら側とあちら側という分割が、内と外との分割が生じるということである。それゆえ、北の日本というのは、こちらとは別の世界というよりも、外の世界を指している。こちらから常に見ることができる塔は、純粋な外を指し示しているのである。


 こうした二分化をさらに推し進めた作品として、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』の名前を上げることができるだろう。この作品で描かれているのは、戦時下における日本(主人公たちが生活している北海道の町)であるわけだが、しかし、いったい、日本がどこと戦争をしているのか、それが説明されることはまったくない。加えて、この作品では、主人公の彼女である女の子が、突然、戦闘兵器に改造されて、戦争に駆り出されるわけだが、いったい、なぜ、彼女が選ばれたのか、そうしたことの説明もまったくないのである。


 この作品の注目に値するところは、まさに、この「説明がない」というところである。大状況に対する説明がないことによって描き出される状況とは、なぜだかはわからないが、平穏な日常生活を脅かすカタストロフがやってきて、主人公以下、周囲の人間たちがそれに巻き込まれてしまう、という不安な状況である。この不可解さ、理不尽さこそが、この作品のキモであり、もし、そこに何らかの理由づけがもたらされたとすれば、この作品は非常に平凡なものになってしまったことだろう。


 そうした失敗の例がアニメ『機動戦士ガンダムSEED』である。この作品も、『最終兵器彼女』と同様、戦争状態に巻き込まれた人たちが出てきて、自分たちの置かれている状況を嘆き悲しんでいる。しかし、物語が進むにつれて、この戦争を引き起こした、あるいは、戦争状態を加速させようとする二人の人物が出てくる。ムルタ・アズラエル理事とパトリック・ザラ議長という二人の原理主義者がそれである。


 『ガンダムSEED』の世界を少し説明すると、この世界では、二つの人種が二つの勢力に分かれて争っている。その人種というのは、遺伝子操作を受けた人種(コーディネイター)と受けていない人種(ナチュラル)の二つである。これら二つの人種は、お互いのことを憎み合っており、上記した二人の人物は、そうした人種主義者の統領なのである。


 『ガンダムSEED』の物語は、これら二つの勢力下で争っていた人々がそうした闘いに違和感を覚え、結集し、これら二つの勢力のどちらにも属さない第三の勢力を打ち立てる、というふうに進んでいく。そうした流れの中で、上記した二人の指導者は戦死してしまい、それが切っ掛けとなるような形で、停戦条約が結ばれて、話は終わる。


 さて、問題は、このような物語展開が持つアクセントと『最終兵器彼女』が持つそれとの違いである。『SEED』の場合、そこで示されているのは、戦争を裏で操る黒幕の存在である。そうした黒幕は、現場の兵士たち(あるいは市民たち)の気持ちも考えずに、ある種、利己的な目的のために戦争を起こす人たちとして描かれている。彼らの決定によってリスクを負うのは、常に、末端の人間たちばかりだ、というわけである。しかし、もし、このような明確な見取り図が描けるならば、戦争に対して嘆き悲しむ必要がどこにあるのだろうか? 戦争を裏で操っている人間がいるのだとすれば、そいつらを排除してしまえば、万々歳ではないのか?


 おそらく、『ガンダムSEED』の力点は、ここにはない。その点で、『SEED』は失敗していると言えるのである。つまり、『SEED』が描きたかったこととは、おそらく、『最終兵器彼女』とまったく同じ状況なのだ。なぜだか分からないが、戦争が起き、平穏な日常生活を送っていた者たちが戦争に巻き込まれる。だからこそ、主人公たちは「なぜ闘わなければならないのか」と問うのではないのか? 職業軍人である彼らになぜそのような問いが出てくるのだろうか? 主人公たちがそのように問いかけるのは、そこに何か不可解なものがあるからではないのか?


 以上のような流れから、『最終兵器彼女』のような作品における「戦争」が持つ意味合いが理解されてくる。それは、国家と国家の間で行なわれる争い、などという形で定義されるような戦争とはまったく別のものを指し示している。それは、端的に言えば、日常生活の外部であり、永遠に続くかとも思われる日常生活に大きな切断線を入れる不安な存在の名前ではないだろうか?


 この点で、戦時下にあるにも関わらず、それまでとほとんど同じ日常生活を送る『最終兵器彼女』のシーンは重要である。主人公の彼女は兵器となって戦地へと出かけるわけだが、翌日はまた、いつもと同じように、学校に登校している。戦争状態と日常生活とは、明確に分けられるものではなく、日常生活の影として戦争は存在しているのだ。


 ここで重要になってくるのが、『最終兵器彼女』で終始描かれている「失われる予感」とでも言うべき不安感である。主人公は何かを失うかもしれないという不安感にずっとさいなまれている。しかし、カタストロフが到来するのは、かなり後になってからの話で、失われる予感があったあとには、また普段と同じ日常生活が始まるわけである。終わる予感を持ちながらも決して終わることのない日常生活を送るということ、この感覚こそが、上記した一連の作品で描かれていることではないだろうか?


 次回も『最終兵器彼女』にもう少しこだわってみたいと思う。