高橋留美子と地方性



 オタク系のアニメを見ていると、そこにひとつの傾向を見出すことができる。それは、さえない男の子のところに突然美少女が押しかけてきて、非日常的なドタバタ騒ぎが始まる、というものだ。僕はこのタイプの作品を「押しかけ女房もの」と呼んでいる。そして、このタイプの原型とでも言うべき作品が、高橋留美子の『うる星やつら』である。


 高橋留美子の作品がアニメやマンガなどのサブカルチャーに与えた影響は非常に大きい。現在のオタク系の作品のほとんどに、『うる星やつら』や『めぞん一刻』や『らんま1/2』の影響が見られる。高橋留美子の功績は、終わらない非日常という作品の類型を作り出したこと、ひとつの世界を切り開いたことにある。オタクの世界がすべて高橋留美子の世界から生み出された、と言うのは言いすぎだが、それぐらいの影響力はあったはずである。


 僕は、高橋留美子の作品の秘密は、その地方性にあると思っている。東浩紀は、『動物化するポストモダン』の中で、『うる星やつら』に「民俗学的世界」を見出していたが、僕は、それ以上に、この作品に「地方性」が見出せると考えている。高橋留美子の作品に「民俗学的世界」が見出せるというのは適切な指摘である。『うる星やつら』に登場する宇宙人たちが民話に出てくるような妖怪の姿をしているというだけでなく、『人魚の森』という民話そのままの作品もあるからだ。しかし、それ以上に、高橋留美子の作品が多くの人に与えた影響というのは、その地方性にあったのではないか、と思われるのである。


 高橋留美子新潟県出身らしいが、同様に地方から出てきたマンガ家はたくさんいるとしても、高橋ほどその地方性を前面に出したマンガ家はいないことだろう。注目すべき点は二点ある。一点目は登場人物たちの言葉遣いである。高橋のマンガに登場する人物たちは、みな独特の言葉遣いや口調をしている。『うる星やつら』に出てくるラムの「うちは○○だっちゃ」という喋り方が典型的だが、その他にも「おのれらは…」とか「おぬしは…」とか、みな独特の喋り方をしている。この点はアニメにおいて特に強調された点かも知れないが、こうした登場人物たちのやり取りが、まるで漫才のように、非常にテンポよく展開していた。こうした独特の喋り口調が新潟の方言なのかはよく分からないが、少なくとも、それを標準語によって再現するのは難しいだろう。


 第二点目は弟一点目と密接に関わっているのだが、それは、家族・親戚・隣近所の親密さである。高橋留美子の作品では、新しい登場人物が次々と出てくることによって、その作品世界が活性化されるわけだが、そうした新しい登場人物たちは、ひとたび以前の登場人物たちの輪の中に組み込まれると、まるでずっと昔から知り合いだったかのように、その世界の中では扱われる。こうして、みんなが和気あいあいとした雰囲気を醸し出すわけである。そのような、現在の都市部においてはあまり見かけなくなった人付き合いが、高橋の作品の中には見出すことができるのである。


 個人的なことを書けば、僕は、母親の実家が岩手県だったので、小さい頃、夏休みになると毎年、田舎の家に泊まりに行っていた。そこでの生活は、自分が普段暮らしている都会の生活とはまったく異なっていて、非常に居心地が良かった。その田舎の家には、よく隣近所の人や親戚の人がやってくるのだが、そのやって来方が都会とは違っているように思えた。つまり、仰々しく、呼び鈴を押して、挨拶を交わしてから家に入るなどということはほとんどなく、まるで自分の家であるかのように、ずかずかと入ってくるのである。そもそも、家のドアに鍵などかけてなく、夏だからかも知れないが、ドアや窓などが開けっ放しになって、出入り自由という感があった。それに、そんなふうに人がやってくると、すぐにお酒と食べ物が用意されて、ちょっとした宴会になるのだ。そして、こうしたことが、大体どの家でも行なわれているのである。


 こうした地方の人付き合いが高橋留美子の作品にも見出せないだろうか? 主人公の家や部屋に、まるで自分の家であるかのように、人がずかずかと入ってくる。そして、そのことによって、ドタバタ騒ぎが始まる。このような親密なコミュニティーが、SFやファンタジーの意匠の下に、一種のユートピア的な世界となっているのが、高橋留美子の世界ではないのか?


 今日のオタク系の作品によく見られる押しかけ女房タイプの物語においても、そこで目指されているのは、ユートピア世界の構築なのだろう。こうした世界をそのまま肯定することには多少ためらいがあるが、今日そうした世界が求められていることだけは確かである。高橋留美子がそもそも、そうした地方性の崩壊を実感してきたのかも知れないが、様々な場所で都市化が進んだ今日、こうしたコミュニティーサブカルチャーの中で回顧されるしかないのだろう。