ディストピアからユートピアへ



 今年の3月までNHK教育で再放送していたアニメ『十二国記』(をビデオ録画していたもの)をやっと見終えたので、その感想をちょっと書いてみたい。


 この作品の根底に漂っている思いとは、「私のいるべき場所はここではない」というものである。「ここは私のいるべき場所ではない。ここではない別のどこかに、私が本来いるべき場所がある」。


 この作品の主人公・中嶋陽子は、自分の現在の生活に不満を抱いている女子高生である。彼女のコンプレックスはその赤い髪にある。その髪の色のせいで、学校では奇異の目で見られ、家庭においても親から「なんであんな子が生まれたんだ」というようなことを言われる。唯一彼女に優しくしてくれる幼馴染の男の子がいるのだが、この男の子に彼女がいることを知り、陽子はショックを受ける。そんなとき、ある日の放課後、彼女の前に「景麒(けいき)」と名乗るひとりの男が現われて、彼女のことを「主上」と呼び、彼女を異世界へと連れて行くのである。物語が展開していくにつれて明らかになっていくことは、陽子はもともと、その異世界のほうの生まれなのだが(髪が赤いのもそのせい)、不測の事故によって、こっちの世界のほうに流されてきてしまった、ということである。つまり、彼女がこちらの世界に馴染めなかったのも故あること、というわけだ。


 同様の設定は、『ハリー・ポッター』のような作品にも見出すことができるだろう。こちら側の世界では、さえない男の子であり、養父母の家族から邪険に扱われているが、実は由緒正しき魔法使いの子供であって、あちら側の世界ではエリート扱いされる、等々(『ガラスの仮面』もそのような話だろう)。こうした設定は、現実世界における何らかの不全感が生み出した幻想とでも言うべきものだろう。その背後にある論理とは、「ここでは私は無価値な存在である。それならば、きっと、こことは別のどこかなら、私は価値ある存在のはずだ」というものである。そして、『十二国記』という作品は、その不全感が通奏低音のように絶えず鳴り響いている作品であって、主人公の陽子だけでなく、他の多くの登場人物たちもこの不全感を抱いていて、絶えずその不満を口にしているのである。


 こうした不全感の高まりが、十二国記の世界において、天帝という超越者の存在を要請したのだろう。十二国記の世界では、天帝という神のような支配者がいて、それが世界の根本的な規則を生み出し、統御している。天帝が直接姿を現わすことはなく、天帝が実在するのかどうかもよく分かっていない。しかし、この世界には、誰にも逆らうことのできない法則が存在していて、そのことから天帝の存在を窺い知ることができる。例えば、この世界では、ひとつの国にひとりの王がいるのだが、その王は天意(天帝の意思)によって選ばれる(王は麒麟によって見出され、それが天意と解される)。それゆえ、もし、天意によって選ばれたのではない偽の王が立ったとすれば、その国は荒廃することになると言われていて、実際その通りになるのである。


 このような、ほとんど自然法則に近いような規則の適応は、善悪の道徳的基準を完全なものにしてほしいという願望の現われであるだろう。つまり、「悪いことをしている奴が利益をむさぼっているのは許されないことだ。従って、悪い奴には罰を与え、善人には褒賞を与える。そうした絶対的な規則を適応できる超越者が要請されるべきだ」と。そうした願望が、この十二国記の世界を作り上げたのではないか?


 しかし、奇妙なことに、こうした天意は、人間の作った法よりもずっと自然法則に近いものとは言え、自然法則ほどには完全に適応されないという、緩い法則として機能している。それゆえ、そうした天意に逆らおうとする人々もたくさんいる。まさに、これは、逆説的なことながら、そうした天意の下でも不全感を持つ人々がいるということを描こうとしたのではないだろうか? その世界が、ある人にとってはユートピアだったとしても、別の人にとってはディストピアでしかない。そのようなバランス感覚を、わずかばかりではあるが、この作品に見出すことはできる。しかし、こんなふうに、道徳的価値観が厳格に適応される世界は、SFで描かれるような管理社会と同様、ディストピア以外の何ものでもないのではないか?


 何度も述べているように、この作品の根底にはマグマのように煮えたぎる不全感があるはずなのだが、物語は、そうした不全感が徐々に解消していく方向に進んでいく。登場人物たちは、初めのうちは、自分の置かれた状況に不満を抱いているのだが、様々な出来事を体験するうちに、そのような不満を抱いた自分のことを反省し、言ってみれば、成長して大人になった、という感じで話が落ち着くのである。だが、ひとつのエピソードにおいて、そのように不満が解消されたとしても、次のエピソードにおいては、別の登場人物がその不満を担うという形で、不全感がすべて消え去ることは決してない。何かに対して不満を持っている人間が常にひとりはいるのだ。


 十二国記の世界は、嫉妬、憎しみ、羨望が渦を巻いている非常にドロドロとした世界である。そして、そのような人々の不満は、天意の名の下、処理される。正しい生き方があり、正しくない生き方がある。結局のところ、この世界でも、主人公は、何とかして、自分を適応させねばならないのである。それゆえ、この作品の功績は、安易なユートピア世界を描かなかったことにあるだろう。こっちの世界がひどいとしても、あっちの世界はもっとひどいのである。だから、向こうの世界でも、反乱はあるし、謀反はあるし、権謀術数は常に蠢いている。あたかも天意などないかのようだ。ユートピアとは、どこかにある世界ではなく、常に捜し求められる場所、まさにどこにもない場所なのだろう。