ニート、曖昧なカテゴリー



 玄田有史+曲沼美恵『ニート』(幻冬社)を読んだ。ちょっと物足りない本だった。山田昌弘の『希望格差社会』を読んだときも物足りなさを感じたが、この本は、それ以上に物足りないものだった。


 この本をざっと読んでみて分かることは、「ニート」というカテゴリーが、「フリーター」や「ひきこもり」といったカテゴリー以上に、曖昧なものである、ということだ。そもそも、ニートという言葉の原義からして、そこあるのは否定的な定義づけ(「学校にも行ってなくて、働いてもいなくて、職業訓練も受けていない人」というような「〜でない」という否定を連ねた定義づけ)であり、はっきりとした焦点化がなされてはいなかった。つまり、「ニート」と分類された人たちは、何らかの傾向というものはそこにあるだろうが、フリーターやひきこもりの人たち以上に、多種多様であると考えるべきだろう。


 ニートという言葉は、就労問題を考えるにあたって、「失業者でもフリーターでもない人」という、従来の分類によっては取り逃してしまう人たちについて考える場合には有効かも知れないが(実際そうした必要性からこの言葉が作られたのだろうが)、そこにある種の性格傾向のようなものを読み取ろうすると、必ずそうした傾向から漏れ出てしまう人が出てくることだろう(例外として処理しきれなくなるぐらいに)。とりわけ、現在の日本で、この言葉に対してどのようなイメージが抱かれているかということを考えてみると、それは、「親のスネをかじって日々をダラダラと過ごしている怠け者」といったものではないか? こうした怠け者のイメージは、別段、新しいものではないだろう。そして、実際、その生活状態を見れば、親に養ってもらっている人がその大半であるだろう。しかし、こうした人たちを怠け者と断定するのは問題であるだろう。従来はそう見られてきたわけだが、昔とは事情がちょっと異なるようだ、というのが、ニートに関心を寄せる人たちが共通に抱いている直観ではないのか? いずれにせよ、こんなふうに、単一のイメージで括ろうとすると、常にその枠からはみ出る人が出てくる、そのような曖昧なカテゴリーがニートではないのか?


 だが、そんなふうに言ったからと言って、僕は、ニートが問題でないとは思わない。フリーターでもなく、失業者でもない人たちが増えてきているのは事実だろうし、その背景に社会の大きな変動を垣間見ることができる。その点で、ニートを単なる怠け者と見なすことは、現在の日本が直面している社会的な問題に目をつむることになりはしないだろうか?


 『ニート』の本が物足りなかったのは、いったいニートという言葉によって何を問題にしたいのかということが、はっきりしていないところにある。そんなふうに単純に二分化できるとは思わないが、問題の所在を社会と個人とに分けることは可能だろう。ニートという現象について、それは、個人の問題なのか、社会の問題なのか、というふうに。玄田有史は、一見すると、社会が問題であるというふうに考えているように見える。しかし、彼の書いている文章をよく読むと、彼が専ら問題にしているのは個人であって、本の最後には人生訓のようなことまで述べられている。

 早く自分にもそんな何かに触れるチャンスがまわってこないか、と思う。どうすれば、自分のやるべき「本当」に出会うチャンスはめぐってくるのか。
 その答えは、日頃からとにかく「ありがとう」と言っておくことだと、私は信じている。一度、一週間でいい、自分が何回、その言葉を口にしているかを、本気で数えてみる。そしてその一・五倍口にする練習を、自分のなかで密かにする。そうすれば、チャンスはめぐってくるようになる。(267頁)

 こんなふうに人生訓をもっともらしく述べることが学者の仕事なのだろうか? ニートの問題について専門的に述べている彼の本があるのかも知れないが、少なくとも、この『ニート』という本からは、ニートの本質を突くような鋭い指摘は何も見出せなった。性急に解決策を探るよりも、まずは冷静に状況分析をするのが先ではないだろうか? それが学者の仕事ではないのか?


 本を読み進めていくと、この『ニート』という本は、「看板に偽りあり」という気がしてくる。玄田有史は、どうやら、フリーターについては一家言ありそうだが(フリーターを肯定しているような発言から鑑みて)、ニートに関しては、何が言いたいのかよく分からない。この本の三分の一の分量を占めている中学生の職業体験の話も、ニートとは無関係とは言えないにしても、直接関係のない話だろう。こうした諸点がこの本の散漫なところであり、ニートという現象自体の捉えがたさを暗示している。


 ニート、フリーター、ひきこもり、などなど、問題を抱えた若者を名指すレッテルはたくさんあるが、問題の本質を捉えるためには、こうしたレッテルにこだわるべきではないだろう。玄田も言っていることだが、誰もがニートになる可能性があるとすれば、ことさらニートが問題であるわけではないだろう。フリーターでも、就業者でも、ニートと同じ問題を抱えている人はいるはずだ。


 だからといって、ニートという言葉を使うべきではない、とまでは言えないだろう。そうした言葉を使うことによって、今まで問題にされなかったようなことが問題にできるわけだから。しかし、だからといって、この言葉に引きずられて、ニートというものを実体化すべきではないだろう。ニートはまったく実体を欠く言葉だ。そんなふうに断言した上で、なおかつニートという言葉を使う、それぐらいの柔軟さをこの本で示してほしかった。ニートの問題はまだまだ手がつけられたばかりだ。