家族以上に家族的



 現在グローバリゼーションなどの影響によって古くからあった地域の共同体が崩れてきているという話をよく聞くが、そうした社会状況は、様々なサブカルチャー作品にも影響を与えているように思える。現在TVで放送されているアニメ『まほらば』などは、まさに、そのようなグローバリゼーション下の作品ではないのか?


 この作品の主人公(白鳥隆士)は、絵本作家を目指すために、地方から上京してきた18才の男の子である。彼が東京で住むことになったのが鳴滝荘というアパートなのだが、そのアパートの作りはかなり珍しいものであり、実際にそのようなアパートがあるとはとても思えない。鳴滝荘は、木造の日本家屋の平屋建てで、トイレと炊事場が共同であり、中庭を囲む形で廊下がぐるりと巡っていて、その中庭に面して等間隔に部屋が並んでいる。つまり、そのアパートは、極力住人同士が関わらないような作りになっている今日の一般的なアパートの作りとは逆に、過剰なほど他人と触れ合う機会が多い作りになっているのである。


 この鳴滝荘は、玄関に面した道路以外の三方を巨大なビルに囲まれている。アパートの背後には常に高層ビルのガラス張りの壁面があり、その谷間のぼっかりと空いた空間に、平屋建ての日本家屋が静かにうずくまっている。アパートの中庭には小さな池があり、木々が鬱蒼と生い茂っている。高層ビルと平屋建ての日本家屋というこのギャップこそが、この作品の主旋律をなしてはいないか? つまり、鳴滝荘が象徴しているのは、失われた過去の時間であり、一瞬後にはいつ再開発されてもおかしくないような、危うい町の記憶なのである。


 このような失われつつある風景は、鳴滝荘の近くにある商店街にも見出すことができる。主人公と鳴滝荘の大家さんとが商店街に買い物に行く話があったが、そこで商店街の人たちはみな、大家さんに親しそうに話しかけていた。つまり、商店街の人たちは、みな大家さんのことを知っていて、その大家さんのアパートにやってきた主人公を歓迎するという感じなのである。こうした情景を東京で見ることなど、ほとんど稀ではないだろうか?


 今日、われわれは、このような他者との親密さを、過剰な他者の侵入と捉えるのではないだろうか? 近隣住民とのトラブルがワイドショーなどで話題になることがあるが、都会における近隣住民との適切な関わり方とは、お互いに干渉し合わない、というものではないのか? こうした点から、『まほらば』を見てみると、そこにあるのは、まったく逆の、他者の過剰な干渉である。主人公の生活に、同じアパートの住人たちが、過剰に入り込んでくるのである。今日では、家族の間ですら、お互いに干渉し合うことが少なくなってきているというのに、鳴滝荘の中では、赤の他人同士が、家族以上に、親密な関係を築いているのである。


 『まほらば』の狙いのひとつは、見ている人をイライラさせることにある。主人公は、絵本作家になるという夢を抱いて、美術学校に通っているわけだが、鳴滝荘では、アパートの住人たちが毎日のように主人公の部屋で宴会をするので、彼は学校から出された課題を十分にこなすことができない。近隣住民が個人の生活を脅かす。そうした不快感を、この作品はまず与える。しかし、主人公は、徐々に鳴滝荘の生活に慣れていき、このような他人の干渉を心地よく感じ始める。この変転が、おそらく、この作品の狙いであるだろう。主人公を温かく迎えてくれる家というものを単純に描かずに、まずは他人の過剰な介入を描く。この遠回りが、この作品に、わずかばかりのリアリティを与えているのである。


 『まほらば』の功績とは、干渉されたくはないけれども干渉されたい、という矛盾した欲望を描いたところにあるのではないか? 関わってほしいか、関わってほしくないか、の二者択一ではない。干渉するということは他人の生活を掻き乱すということである。従って、いざこざのない干渉など存在しない。問題は、そうしたいざこざを起こすほどに、干渉する動機が他者にあるのかどうか、ということである。


 『まほらば』は間違いなくユートピアを描いた作品である。主人公は何かを待ち望む受動的な青年であり、そんな彼が好運に出会ったわけだ。突然生じた他者の介入。そうした好運な出会いこそが、この作品の最も非現実的なところである。