二次創作としての『デスティニー』



 今年、『機動戦士Zガンダム』の映画が公開される。そのためか、昨年から、東京MXTVなどの地方局で、『Zガンダム』が再放送されている。ちょうど時を同じくして、『機動戦士ガンダムSEED』の続編である『ガンダムSEEDデスティニー』のTV放送が始まった。『Z』と『デスティニー』の二つの作品を見ていると、どうしても「続編」というもののあり方について考えさせられてしまう。


 『Zガンダム』と『デスティニー』は、同じ続編であっても、そのあり方がまったく異なっている。前者はその「続編」という名に相応しい作品ではあっても、後者はそうではない。『デスティニー』は続編というよりも、「二次創作」と呼んだほうが相応しくはないか?


 第1作目と地続きの続編が作られた場合、気になるところは、前作の登場人物がどのように活かされているか、ということである。この点、『Z』は、登場人物の活かし方が上手い。前作において、敵対関係にあった、シャアとホワイトベースの乗組員たちとを、どのように再会させるかという、その演出の仕方が上手いのである。(前作においては直接対面したことがなかった)シャアとブライトとが握手するシーンや、(直接対面する前にお互いのことを直感で分かり合う)シャアとアムロが再会するシーンなどは、前作を知っている者にとっては、感慨深いものがあるだろう。


 こんなふうに前作から引き続いて登場する人物たちに加えて、新しい登場人物もたくさん出てくるわけだが、そうした登場人物たちが、前作の登場人物たちのオーラに、圧倒されてしまうことはない。前作からの登場人物たちはむしろ抑え気味に登場し、ほとんどゲストのように扱われている。物語の視点は、常に主人公のカミーユに置かれていて、それがぶれることはない。


 こうした『Z』のあり方から考えると、『デスティニー』のほうは、登場人物がたくさん出てきて、少々インフレ気味になっていると言わねばならない。前作から引き続いて登場する人物がいるのはいいとしても、そのほとんどが、前作と同様、最前線で活躍している。『デスティニー』の主人公は、新しく出てきたシン・アスカであるはずなのだが、彼が活躍することはあまりなく、むしろ、前作の主要キャラ、アスラン・ザラが主人公であるかのようだ。こんなふうに、新旧合わせて、登場人物がいっぱい出てくるので、大枠のストーリーがなかなか進まず、登場人物同士の小さなやりとりに話が終始してしまっている感がある。


 こんなふうに書くと、この作品が続編としては失敗作であると思うかも知れないが、そもそも続編とはどうあるべきかということを考えると、一概に失敗作とは言えないだろう。視点を少し変えてみると、この作品の別の側面が浮かび上がってくる。それは、この作品は『SEED』の続編ではなく、(同人誌などに描かれるサイドストーリーのような)二次創作ではないのか、というものである。


 そのことの証左は、オープニングとエンディングのアニメーションに端的に表われている。それを見て誰もが思う感想とは、その演出スタイルが『SEED』のときとまったく同じではないか、というものではないのか? つまり、『デスティニー』に見出すことができるのは、『SEED』の続編であるが『SEED』とは別の作品であるという位置づけではなく、むしろ、『SEED』をもう一度やろう、という反復の意志がそこには見出せるのである。


 この点から考えるのであれば、『デスティニー』において大状況がほとんど描かれないのも、頷けることである。同人誌などの二次創作で描かれることは、大状況というよりもむしろ小状況、登場人物たちの恋愛関係(性関係)ではないだろうか?


 こうしたことが示しているのは、物語というものの質が変化してきている、ということである。物語を成り立たせるためにキャラクターがあるのではなく、キャラクターを成り立たせるために物語がある。このようなキャラクターの存在の大きさこそが、様々な二次創作を誘発しているのではないか? この点で、『デスティニー』は、物語を提示するのとは別の役割を果たしていると言える。『デスティニー』がやっているのは、様々な二次創作を生み出すためのネタを提供すること、『SEED』の世界を豊かにするための様々な逸話(小状況)を作り出すことであって、登場人物の過剰も、まさに、そうしたネタ提供に貢献しているのではないか?


 こうした観点から『デスティニー』を捉え返してみれば、別段、この作品が、ストーリー上、完結している必要はないだろう。むしろ未完結なところが多ければ多いほど、視聴者の想像力を刺激して、様々な二次創作を生み出すのではないだろうか(『新世紀エヴァンゲリオン』がまさにそうだったように)。そのような様々なコピーを生み出す良質なコピーとして、『デスティニー』は機能しているように思う。


 メディアミックス全盛のこの時代にあって、こうした二次創作的な作品、設定資料的な作品は、ますます増えていくことだろう。完結した物語があって、そこには作者のメッセージがある、といったような観点から、こうした作品を分析してもあまり意味がないだろう。新しい作品形態に見合った新しい分析方法が必要とされているのかも知れない。