ロケットのある風景



 いまNHK教育で再放送している『ふたつのスピカ』というアニメを毎週見ている(正確にはビデオに録画したものを見ていて、まだ2月に録画したものしか見ていない)。宇宙飛行士になることを目指す少女が主人公のSFファンタジーだ。


 この作品を見ていて、ちょっと気になることがある。それは、この作品の風景が、日本で宇宙飛行士が養成されることになっているような近未来のものではなく、現在よりももっと前の、70年代か80年代くらいの風景だ、という点である。


 80年代の風景に、海辺の街から飛び立つロケット。これは決してミスマッチではない。むしろ、この二つの要素は非常によくマッチしている。まさに、この点が、この作品をSFというよりも、ファンタジーに仕立てている大きな理由であるだろう(重要なキャラクターのひとりである「ライオンさん」の存在も大きいが)。


 日本のSF作品、とりわけ、マンガやアニメのSF作品には、このようにファンタジーの要素が加わったものが非常に多い。本格SFと言えるようなものを見出すことのほうが難しいのではないだろうか? その理由は、やはり、日本で作られたという作品の土壌にあるように思える。つまり、こうしたSFファンタジーには、日本の風景への郷愁といったものが感じられるのである。


 そのことは、手塚治虫のマンガからして言えることだ。例えば、『鉄腕アトム』の場合、アトムは黒の学生服に半ズボン+学帽という格好で登校し、その学校の風景というのも、おそらく当時の学校の風景とほとんど大差ないだろうと思われるものなのである。それでいて、他方においては、奇妙な形の高層ビルが立ち並んでいたりもするわけで、このようなギャップこそが、この作品に大きな魅力を与えていたと考えられるのである。つまり、これは、手塚治虫が、想像可能な未来社会を描こうとして『アトム』を描いたのではなく、当時の社会のただ中に未来社会を出現させようとしていた、ということではないだろうか? 普段見慣れた風景の中に、ロボットが出現し、高層ビルが立ち並ぶのである。


 最近のアニメでは、『学園戦記ムリョウ』という作品が、まさにそんなふうに、SFと日本の風景とをマッチさせた作品だった。問題はハイテクの描写の仕方である。この作品には、人工衛星からも発見されないような極秘の村が出てくるのだが、その描かれ方は、まるで忍者の隠れ里のようだ。その背後にSF的な裏付けがあるのだが、その表面に出ているのは、古き良き日本の風景なのである。


 こうしたことは、多少リアルなSF作品についても言えることである。『プラネテス』では、『スピカ』と同じように、海辺の街(九十九里浜)からロケットが発射されているのだが、その光景はファンタジー以外の何ものでもない。『耳をすませば』で、主人公が、低空を飛んでいる飛行船をマンションの窓から見上げて、喜んでいるシーンがあったが、まさに『プラネテス』のロケットは、この飛行船と同じような効果を持っていないだろうか? それは、この日常世界を異世界へと変える魔法のアイテムのようなものではないだろうか?


 『スピカ』や『プラネテス』で語られる「宇宙飛行士になりたい」という夢そのものが80年代的ではないだろうか? 『プラネテス』がそうした夢が失墜した地点で作られた作品だとすれば、逆に『スピカ』は、そうした夢をノスタルジックに回顧した作品と言える。どちらの作品についても言えることは、宇宙に行くという夢がもはや色あせてしまった、その哀愁の中で作られているということである。


 『スピカ』の監督である望月智充も80年代的なアニメ作家だと言える。彼の代表作であるジブリの『海がきこえる』に出てくるような風景を思い出してほしい。大きく広がる海と白い雲が漂う快晴の空。そこに、噴射煙を引きながらロケットが空高く飛ぶ風景。この風景は、もはやアニメの中でしか見られない、失われてしまった風景である。