『機動戦士ガンダムSEED』における遺伝子操作のテーマについて

 昨日は、『機動戦士ガンダムSEED』とセカイ系との違い(と類似点)を大雑把に見たので、今日は、もう少し細かいレベルで、『SEED』について語ってみたい。いくつかトピックを上げて問題にしてみたいが、今日のところは、遺伝子操作というテーマに関して主に問題にしてみたい。


 まずは、コーディネイター(遺伝子操作を受けた人間)とナチュラル(普通の人間)という人種の分類について。この人種の区分けが非常に興味深いのは、それが、力の問題と密接に関わっているからである。コーディネイターナチュラルとの違いとは、能力のある人間と普通の人間との違いである。
 『SEED』において注目すべき点は、主人公のキラ・ヤマトに、こうした能力の問題が喚起されるように物語が進んでいくところにある。キラは、その最初の物語展開においては、ナチュラルには容易に操縦できないガンダムを操縦できるという点で、敵と闘うことができる唯一の存在、友人たちを守ることができる唯一の存在だった。だが、この期待は、はっきり言って、過剰な期待であると言える。コーディネイターは、確かに、能力のある人間かも知れないが、何でもできるわけではない。そこには、当然のことながら、能力の限界というものがある。しかし、彼には、能力以上のことが常に期待されている。とりわけ、フレイという登場人物に仮託された役割とは、そんなふうにキラに過剰な期待を寄せることにある。彼女はキラの恋人になるわけだが、まさに、彼女は、自分のことを絶対的に守られる人物として措定することで、キラに過剰な要求をするのである。
 キラがそのように期待される人間であるという点で、キラの無力さが際立つシーンというのは、非常に重要である。とりわけ、民間人の乗ったシャトルが敵に攻撃されるシーンというのは、まさに、無力さというものを問題化したシーンだったと言えるだろう。目の前にいる人間を助けることができなかったわけである。
 コーディネイターナチュラルとの違いは、まさに、このように、力の問題を巡っているわけだが、その点で、続編の『DESTINY』において、これらの二つの人種間に、ほとんど能力の差がなくなってしまったのは、問題意識の後退と言わねばならないだろう。


 強化人間(「エクステンデッド」と呼ばれる)については何が言えるだろうか? 強化人間についての描写で、非常にショッキングであるのは、やはり、記憶を自由に操作できるという点であるだろう。ステラとシンとの恋愛が悲劇的であるのは、ステラがシンを愛したことそれ自体の記憶が失われている、というところにある。
 強化人間と記憶の問題については、もちろん、すでに、『機動戦士Zガンダム』で描かれていたことである。フォウ・ムラサメロザミア・バダムという人物において何が問題になっていたのかということをよりよく理解するためには、例えば、『GUNSLINGER GIRL』のような作品を参照するのがいいだろう。
 『GUNSLINGER GIRL』は、まさしく、強化人間についての物語である。そこに出てくるのは、殺人マシーンと化した女の子たちであるが、注目すべき点は、彼女たちが非情にも人を殺していく一方で、実に子供っぽい側面、あどけない側面も持っているということである。彼女たちは極めて純粋無垢であり、この純粋無垢さが逆に、親代わりになっている上官の命令には絶対に服従するという結果を生み出すことになっているのである。
 純粋無垢であるが、冷酷な殺人鬼でもある。このギャップこそが、強化人間の極めて不気味なところでもあり、悲劇的なところでもある。彼女たちは、本質的に無知であり、自分のやっていることと自分がやっていると思っていることとの間には、非常に大きな乖離があるのだ。
 フォウ・ムラサメロザミア・バダムに見出されるのも、このようなギャップである。彼女たちの中には、多様な人格とでもいうべきものが存在している。記憶を思い出したり、忘れたりすることで、人格が次々に変化するのである。カミーユがロザミアを殺すシーンとは、まさに、そんなふうに混乱に陥った人間を楽にさせようというシーンだったと言える。


 複数の人格の問題、人格におけるギャップの問題については、さらに、『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイというキャラクターを参照すべきだろう。この人物類型は、今日においては、非常にありふれたキャラクターになってしまったが、そもそも、彼女のような存在において問題になっていることとは何だろうか?
 一見して、彼女に欠けているものとは、感情であるが、このような感情の欠如は、彼女をロボットのような存在として、操り人形のような存在にしてしまう。だが、重要な点は、それでも、彼女の中の何かが、多様な出来事を記録し、普通の人間と同じように、何かを感じ取っているということである。このことが明確に描かれたエピソードが「涙」と題された回(第23話)の話であり、この回で、彼女は、自分の意志とは無関係に涙を流す。これは、彼女の知らない彼女自身が涙を流しているということ、彼女の知らない記憶を持った存在が涙を流しているということである(この前の『ウィッチブレイド』にも、似たようなシーンがあった)。
 最近の作品からもうひとつ例を取れば、『涼宮ハルヒの憂鬱』に出てくる長門有希という登場人物もそのようなキャラクターだと言えるだろう。彼女は、情報思念体のインターフェイスという設定であるのだが、このような存在の地位は、つまるところ、生物で言えば、種の存在と個の存在とのギャップという言い方で言い表わされるものだろう。生物は、その本能という次元においては、その生物の種の意志とでもいうべきものに従っているわけだが、個々の個体のレベルにおいては、独自の意志に基づいて行動していると考えられる。長門有希は、一見すると、その個体としての特殊性を剥奪された存在であるかのように見える。つまり、彼女は、無数にいる同じ存在の中のひとつにすぎないという感じなのだ(このような存在は、『WOLF’S RAIN』に出てくる、自分のことを「これ」と呼ぶ、花の少女の存在である)。しかし、物語の中で提示されるのは、そのような彼女がひとりの人間のように振る舞うこと、つまり、一般的な本能とでもいうべきものから逸脱する瞬間があるということである。このギャップこそが、綾波レイにしろ、長門有希にしろ、彼女たちに魅力を与えているものだと言えないだろうか?


 『SEED』において提示された生命倫理的な問題、それは、能力の問題であり、記憶と人格の問題であった。もうひとつの問題、クローンについては、何が言えるだろうか?
 ラウ・ル・クルーゼという人物において描かれていたこととは、普通の人間よりも早く老化するという人間、普通の人間の欠陥であるような人間というものである。『エヴァ』の綾波レイにおいて描かれていたクローンの問題とは、端的に、いくらでも代わりのきく人間という発想、使い捨てられる人間という発想である。こうした人間においては、死というものがすでに折り込み済みだと言える。『GUNSLINGER GIRL』の少女たちもそうであるが、彼女たちには、耐用年数があるということが前提になっているのである。
 最近のアニメで、クローンに関して面白い問題を提起していたのが、『RAY THE ANIMATION』である。この作品に出てくるクローンは、あるひとりの男の欲望を満足させるためだけに、生み出されていたのだが、その欲望とは、つまるところ、失われた過去を蘇らせたい、というものだった。この男の母は、彼が小さい頃に死んでしまっていたので、その母を蘇らせたいというのが、クローンを作る目的のひとつだった。もうひとつの目的があるのだが、それは、自分が死んでしまった後でも、母と自分との永遠の時間を保存しておくために、自分自身のクローンを作っておくというものである。ここには、クローンという存在によって示される不気味さがはっきりと現われている。つまり、クローンとは、自分自身の分身のこと、自分自身の代わりに存在する自分自身のこと、自分自身の生の価値をほとんど無に帰すような存在のことなのである。


 以上のように見てくると、『SEED』という作品が、非常にアクチュアルな問題を提起していることがわかる。『SEED』は、非常に貪欲な作品である。それは、今日的なあらゆる問題をその中に詰めこんだ作品であると言える。遺伝子操作以外の問題については、後日また、詳しく述べてみたいと思う。