『機動戦士ガンダムSEED』とバトルロワイアル状況

 『機動戦士ガンダムSEED』の世界観が、911以後の国際情勢を踏まえた上で作られていることは明白である。地球連合ザフトとの闘いは、アメリカのアフガニスタン侵攻、あるいは、イラク戦争を彷彿とさせるだろう(世界が二分して争っているという点では、冷戦時代のことをむしろ思い起こさせるのだが)。このような世界情勢の中で、特に問題になっていることと言えば、それは、オーブ国の立場、オーブに仮託された日本の立場だと言える。オーブは、それまで、中立国であったのだが、そのように情勢が緊迫してくると、明確な立場表明をするように外圧を受けることとなる。つまり、どちらの陣営に立って闘うのかということ、参戦の意志を明確にするように促されるのである。
 ここにおいて問題になっていることとは何だろうか? 作品が明確に批判している態度とは、地球連合の言うがままになることである。オーブは小国であり、巨大な勢力である地球連合に武力よる圧力をかけられることによって、その中立状態を維持しえなくなる。『SEED』において、特に続編の『DESTINY』において、課題として掲げられていることは、そのような圧力にいかに屈しないかということ、自立した国の威信を示すことである。
 『DESTINY』で描かれていたのは、圧力に屈してしまった国の姿である。『DESTINY』において、オーブ国は、地球連合の側に立って闘うことを最初から表明することになる。オーブの国家元首であるカガリは、この点で、ひとつの葛藤を抱いた人物として描かれる。彼女は、自分のやりたくないことをやらざるをえない状況に置かれるのである。最終的に、彼女は、自分の信じる道を進むという選択をするわけだが、そこにおいて見出される主張とは何だろうか? それは、まさに、この『ガンダムSEED』という作品全体のテーマでもあるのだが、自分ひとりの力では事態の変更が望めないようなことでも、そこで何かをなすことが、結果、全体の状況の変更に繋がる、というような主張である。


 大状況の変化。これこそが『ガンダムSEED』という作品が常に焦点を合わせているものであり、逆に、今日においては、ほとんどそのリアリティを喪失しているものでもある。『SEED』という作品の、ここでの問題点とは、まず第一に、個人のレベルと社会的なレベルとがほとんど同一視されているところである。『SEED』には、独裁者の臭い、ファシズムの臭いが少し漂っているように僕には思える。その理由は、個人が社会全体の状況を左右することの危険性が、作品の中で、ほとんど検討されていないところにある。『SEED』では、原理主義者たちは、批判の対象となっている。彼らの見識の狭さ、あるいは、その利己主義的な立場が、そこでは、批判の対象となっている。しかし、それでは、原理主義を批判するそのような立場(主人公たちの立場)自体は批判の対象にならないのだろうか? いったい、キラやカガリの立場を正当化するものとは何なのだろうか?
 『SEED』において、戦争は、絶対悪として描かれている。それは、完全な悪であり、それを引き起こそうとするものは、まったくの利己的な動機だけで、それを引き起こそうとする。あるいは、デュランダル議長のように、自己の立場の絶対的な正当性を確保するために戦争を引き越す。自分の立場に反するような存在は邪魔だから排除される、というわけだ。しかし、このような立場は、まさに、キラたちもやっていることではないだろうか? 仮に、キラたちの立場がポジティヴなもの(理想的な国家像など)を持っておらず、ネガティヴなものしかそこにはないとしても、そのような否定性がそこでは絶対化されてはいないだろうか? もし絶対化されているとすれば、そこには、相対主義の絶対化とでもいうべきものがそこにあることになる。


 今日において、この相対主義という立場こそ、厄介なものはないと思われる。相対主義は、バトルロワイアル的な状況、つまり、万人が利己主義的な動機に基づいてのみ行動する状況においては、有効な解決の手段にはならない、ということである。
 バトルロワイアル的状況というのは、ある種の考えを偽善として告発するような悪意がそこにはあるように思える。つまり、そこでは、利他的な行為の背後にある利己的な動機を暴き立てようとしているのである。バトルロワイアルとは、簡単に言ってしまえば、自分と他人の両者が共に生き残ることができないシステムのことである。それゆえ、そこで、本当に利他的な動機において行動するとするならば、自分自身は死ななければならないのである。他人を殺すか、自分が死ぬか。この究極の選択において、バトルロワイアルのシステムそのものは、他人を殺すように人を促していると言えるのである。


 しかしながら、映画の『バトルロワイアル』を始めとして、サブカルチャー作品で描かれ続けてきたバトルロワイアル状況は、そのような状況設定自体が間違っていることを何とかして証明しようと努力しているように思える。つまり、バトルロワイアルという状況設定は、外から押しつけられたものであり、そこで提示されたルールに従うべきではない。ルールの裏をかくような抜け道を探さなければならない、というわけだ。
 『ガンダムSEED』が描いていること、それは、そのようなルールを書き換えることが可能だ、というものである。キラやカガリたちが提示している道とは、おそらく、そのようなものだろう。ルールに従い、そのルールの中で勝敗を決めるのではなく、そのルール自体を疑問視しよう、というわけだ。しかしながら、結果、キラたちは、自分たちの立場の正しさを相手に認めさせるために、相手のプレイヤーを打ち負かしている。つまり、彼らは、完全に、ゲームの土俵の上にいると言えるのである。彼らが最終的にルールを変更できるのは、彼らが優秀なプレイヤーであるからに他ならない。


 このように考えれば、同じバトルロワイアル状況を描いた作品でも、『ローゼンメイデン』のような作品のほうが、事態の深刻さを示している点で、優れた作品だと言えるだろう。『ローゼンメイデン』で描かれる状況、「アリスゲーム」と呼ばれる闘いは、まさしくバトルロワイアルそのもの、ひとりの勝者だけしか生き残れず、自分が勝者になるためには仲間たちを打ち負かさなければならないという状況である。この作品でも、そのようなバトルロワイアルのルールそのものを疑おうとするような傾向が見出せるのだが、少なくとも、続編の『ローゼンメイデン・トロイメント』においても、そのような状況自体を乗り越えるような有効な解決策は見出されていない。
 『ローゼンメイデン』で興味深いのは、そのようなバトルロワイアル的な問題が、ひきこもりの問題と重ね合わされているところである。そこに見出されるのは、一種のモラトリアム状態である。バトルロワイアルを一時中断している間は、そこには穏やかな時が、平和な時が流れている。しかし、その時はいつまでも続くわけではなく、いつかは、また闘いを再開しなければならない。その再開の先にあるのは、ひとりを残してみんな死ななければならないという決定した結末である。この一時中断状態、そして、それを引き起こす運命論的な考えこそ、ひきこもりの状態にも見出されるものである。そこにあるのは、延期している状態、何かを避けている状態である。人形たちが行なっている「アリスゲーム」を念頭に置けば、そこで、ひきこもりが避けているのも、また同様のバトルロワイアル状態、他者との何らかの競争というふうに考えることができるだろう。そして、そこで先取りされていることとは、不安を引き起こすような結末(明確にイメージできないとしても)であり、その不安がひきこもりの動きを止めているのではないだろうか?


 愛される者はひとりだけ。それこそが、「アリスゲーム」の内容であるだろう。必要である存在はひとりだけであり、負けたものたちには存在理由はない。ここにあるのは、必要とされている/されていない、愛されている/愛されていない、という存在の承認を巡る問題設定であり、こうしたことは、「アダルトチルドレン」という言葉で以前から語られている問題であるだろう。それは、とりわけ、『新世紀エヴァンゲリオン』という作品で提示されていた問題である。この点については、また後日、問題にしてみることにしたい。