交換不可能な全体的なもの

 アニメ『極上生徒会』で描かれているもの、それは、一種のアジール(避難場所)だと言える。そこにあるのは、ユートピアとしての場所、理想としての場所であるが、重要な点は、そのような場所が人為的に作られたということである。
 私立宮神学園という場所は、否定的に作られた場所だと言える。というのも、その場所は、様々なしがらみから一時的に退避するための場所、様々なしがらみを一時的に忘れ去るための場所だからである。極上生徒会のメンバーの多くは、家のしがらみに縛られている。そこでは、個人の自由が著しく制限されている。そのような不自由な生活から逃れ去るために設立されたのが、私立宮神学園という場所なのである。
 現実と夢という対立項を持ち出せば、私立宮神学園は夢の世界だと言えるだろう。現実から逃れ去るための夢の場所。その外部に現実があるのだが、そこからいったんは切り離された形で、夢の世界が存在しているのである、と。しかし、おそらく、単純に、そのように二分して、事態を捉えるべきではないだろう。現実と夢という対立項は、はっきりと二分されるようなものではなく、その境界線が極めて曖昧なもの、お互いがお互いを支え合っているようなものだと言えるだろう。それは、現実と理想、現実と虚構という対立軸についても言えることである。


 『極上生徒会』にしろ、『まほらば』にしろ、そこでは、ひとつの場所が問題になっている。その場所の定義とは、言うなれば、何とも交換することができない場所というものである。『吉永さん家のガーゴイル』もそうだろうが、そこで描かれる土地というものは、他と交換することのできない固有の場所なのである。
 『吉永さん家のガーゴイル』で描かれる御色町という町について、さらには、その商店街について、少し考えてみよう。この町の特徴とは、それが部外者を受け入れる場所であるということだ。町の守護者であるガーゴイルは、様々の敵と闘うが、その敵は、いつの間にかに、その町の一部になっている。あたかも、以前から、その町にずっといたかのように、その町で固有の場所を得ているのである。
 さらに、怪盗やマッドサイエンティストの位置について考えてみよう。彼らのいる場所とは、町の外ではなく、町の内側である。つまり、旧来の物語においては、共同体の敵として、共同体の外部に位置していたような存在が、ここでは、その内部に位置づけられているのである。
 おそらく、このような場所にとっての最大の敵とは、交換可能性そのものだと言える。そうした点で、しばしば、いくつかの作品で、商店街と大型百貨店とが対立させられていると考えられる。


 固有性の剥奪の問題は、場所だけでの問題ではなく、人間についての問題でもある。『エレメンタルジェレイド』や『LOVELESS』は、そうした問題を提起している作品だと言える。
 『エレメンタルジェレイド』で提起されている問い、それは、「あなたは私を欲望しているのか、それとも、私の中にある何かを欲望しているのか?」ということである。言い換えれば、この問いは、全体としての「私」が欲望の対象になっているのか、それとも、「私」の中の一部、「私」の本質にとっては偶有的な部分が欲望の対象になっているのか、ということである。
 全体性としての「私」において問題になっているもの、それは、端的に言えば、愛であり、それは、交換不可能なものである。それに対して、「私」の中にある部分的なものは交換可能なものである。エディルレイドと呼ばれる女性たちは強力な武器に変身できるのだが、ここにおいて、ある女性を求めることが、上記したような問いを開くのである。すなわち、その男性は、強力な武器を求めているために彼女を求めているのか、それとも、彼女を愛しているがために彼女を求めているのか、という問いである。
 おそらく、この問いは、そんなふうに、はっきりと二分することができないような問いである。というのも、たとえ、その人が「彼女を愛しているために彼女を求めている」と言ったとしても、彼女を求めることの内容に、強力な武器が使えることが必然的に入ってくるからである。


 このような二重性は、『LOVELESS』においては、自発性と従属性という対立の下に描かれている。我妻草灯(あがつま・そうび)という人物は、主人公の青柳立夏(あおやぎ・りつか)に対して、完全に従属した人物として現われる。彼は「立夏が命令をすれば自分は何でもする」というようなことを言う。この点で、草灯の愛の言葉には、ある種の空疎さが入りこむ。彼が立夏に優しい言葉をかけたとしても、それは、一種の義務感からそうなされたように聞こえるのである。
 しかしながら、草灯という人物の言動には、そんなふうに単純に割り切れないところがあるのも確かである。草灯は立夏に自分のすべてを捧げるが、それは彼が立夏に完全に従属しているからである。ここに、草灯の自由意志というものは見出されない。しかし、草灯は、しばしば、自分の言ったことを違えるところがある。例えば、草灯は、「立夏が電話をすれば、自分は、どんなときであっても電話に出る」ということを言うのだが、彼が電話にまともに出ることはほとんどない。こんなふうに約束を違えることこそが、草灯の奉仕を義務以上のもの、謎めいたものにしていると言えるのである。


 まとめてみれば、ここにあるのは、はっきりと二分することのできない、いくつかのものである。なぜ、そのようにはっきりと分けられないのかと言えば、それは、簡単に言ってしまえば、全体的なものは部分的なものを通してしか語れないという困難さがあるからだろう。ここにこそ、否定性が介入する余地がある。全体性を浮かび上がらせるためには、部分的なものの否定が必要だ、ということである。
 おそらく、この相対主義の時代に、交換不可能なものの価値を直接に語ることは、ほとんど不可能に近いことだと言える。というのも、そうした発言は、すぐに相対化されてしまう(交換可能なものに翻訳されてしまう)からである(「お金で買える/買えない」という価値基準は、まさに、交換可能か不可能か、ということを言わんとしている)。上記した作品のどれもが、ベタな展開を避けて、いくつもの捻りを入れている点が非常に興味深いところである。全体と部分との入り組んだ関係については、また別の機会に、別の角度から、述べてみることにしたい。