冒険ものの困難、副次的なものの重要性

 『タイドライン・ブルー』と『銀色の髪のアギト』という、飯田馬之介の関わっている二つのアニメ作品を見て、僕は、何というか、ある種の不十分さを感じた。やりたいことが十分にやられていないというか、構想と実際に実現したものとの間に大きなギャップがあるように思えたのだ。
 以前、『銀色の髪のアギト』についてネットでいくつか感想を読んだとき、その多くが、宮崎アニメとの類似点、とりわけ『ナウシカ』や『ラピュタ』との類似点を指摘していた。同様の連想を働かせれば、『タイドライン・ブルー』は『未来少年コナン』に似ていると言えるだろう。つまり、これら二つの作品に見出すことができる不十分なところとは、宮崎アニメと比較した上で、指摘できるものなのである。表面的には、宮崎アニメによく似ているが、しかし、宮崎アニメに見出されるものが、この両作品には見出されないのである。
 しかし、そもそも、宮崎駿自身の作品も、もはや、『コナン』や『ラピュタ』とは違う種類の作品を作るようになったと言える。これは、作らなくなったというよりも、作れなくなったと言ったほうが正確であるように思える。つまり、これは、宮崎駿自身の問題というよりも、時代の問題という気がするのだ。
 そうした点で言えば、『タイドライン・ブルー』も『銀色の髪のアギト』も、そもそも、宮崎アニメのような作品を作ろうとしたという、その方向性自体が間違っていたと言える。問題となっていることを言い換えれば、今日においては、冒険ものの物語を作ることは非常に難しい、ということである。


 『ラピュタ』という作品の見事なところは、小状況と大状況との間にバランスが取れているところにあるように思える。つまり、ひとりの労働者見習いの少年が、最終的には、全世界の行く末を左右する大状況に直面することになるというこの飛躍が、極めて自然に描かれているのである。
 また、冒険ものには、場所の移動が非常に重要になってくるわけだが、『ラピュタ』は、時間の経過と場所の移動との間に、見事なバランスを築いていると言える。無駄な場面がほとんどない、ということも言えるが、作品の緩急のテンポに沿って、物語の内容とそれが提示される場所とが、非常にぴったりと当てはまっているという印象を与えるのである。


 冒険ものを大状況と小状況という観点から見たとき、今日において問題になるのは、まず、その大状況の側面が非常に不確かというところである。『タイドライン・ブルー』においても、そこでの危機というものがいったいどういうものなのかということが、いまひとつはっきりしない。そこでは戦争というものが危機として提示されているように見えるが、それは、明白に、顔の見える戦争だと言えるだろう(誰が戦争を引き起こしているのかが明白に分かる戦争)。つまり、そこにおいて、戦争は、(適切にも)政治上の問題に還元されていて、それ以上の大問題としては提示されていないのである。
 『ラピュタ』において、大状況の次元で問題になっているのは、ムスカというひとりの個人ではない(ムスカという個人が悪なのではない)。問題となっているのは、彼の欲したテクノロジーであり、そうしたテクノロジーとわれわれの生活との関係がそこでは問われているのである。そうした点で言えば、戦争などというものは、附随的な問題にすぎないと言える。「戦争か平和か」という問題以上に重要なことがある、ということである。


 果たして、今日、「人類」とか「われわれ」といったものが、問題の対象となりえるのだろうか? なりえるとしても、それは、いきなり、一足飛びに、「人類」という看板を掲げることによってではないだろう。こうした点で、僕は、それなりに、『ふしぎ星の☆ふたご姫』の方向性を評価している。そこにおいて、世界の危機というものは、厳然としてそこにあるにも関わらず、完全に背景に隠れてしまっている。あたかも、重要なものは、大きな場所にあるのではなく、小さな場所にある、とでもいうかのようである。そもそも、大きな場所など存在せず、そうしたものがあると思うことのほうが幻想だろう。重要なものは、小さな場所のネットワークにあるように思えるのだ。
 『ラピュタ』の物語は階段を上っていくように進んでいくが、今日の物語はそんなふうにはいかない。つまり、本道と脇道との区別がはっきりとしないのである。これまで本道だと思われていたものが、単なる脇道にすぎなかったということは十分ありえることである。問題となるのは、細分化され、断片化された物語を、いかにして、総合するかということである。もしかしたら、別に総合する必要もないのかも知れない。現在の物語は、そうしたもののほうが主流であるように思われる。おそらく、現在必要なのは、メインとサブというような二項対立的な図式とは別の図式を思い描くことだろう。つまり、そこでは、ある種の複数性が問題になるのだが、その複数性は、一なるものには対立しないような複数性なのである(ひとつの中心には還元されないような周縁)。重要なものは、常に、副次的なもの、二次的なものである。そうしたものが、われわれの行き詰まりを解決してくれるのではないだろうか?