娯楽ではないようなアニメについて

 これまで、このブログで、いろいろなアニメについて語ってきたが、そもそも、アニメを見るということがどのようなことなのか、とりわけ、現代の日本でアニメを見るということがどのような意味を持っているのか、ということを少し考えてみたい。


 まず、娯楽という観点を検討してみたい。アニメを見ることは娯楽である。このとき、「娯楽」という言葉に込められた意味とは、どのようなものであるだろうか? 端的に言って、そこでは、快楽を得るということが含意されているだろう。ここには、広い視野で見れば、われわれの生活というものに対するひとつの方向性が示唆されている。つまり、快楽を得るということが、われわれの生活の、さらには、われわれの人生の目的になっている、ということである。快楽を得るということが幸福であることと密接な繋がりを持っているのだ。
 快楽装置としてのアニメという観点は、なかなか複雑な問題を提起することになる。そもそも、アニメの何がわれわれに快楽を引き起こすのか、ということを考えると、問題は難しくなる。この問題は、別段、アニメに限ったことではなく、広く、娯楽に関わるものであれば、何にでも提起できる問題である。一般的に、われわれには、快楽を感じる特定の部位とでもいうべきものを想定することができる。これは、身体的な部位というだけでなく、われわれの幻想の領域、われわれのイメージの領域に関わる部位でもある。
 アニメというのは、少なくとも、視覚と聴覚を刺激する何かである。快楽という観点から言えば、それは、目にとっての快楽、耳にとっての快楽を与える何かだと言える。それでは、目にとっての快楽、耳にとっての快楽とは何だろうか? 何が目に対して快楽を与え、何が耳に対して快楽を与えるのだろうか?
 われわれの目や耳は、自然にあるがままの目や耳というよりも、すでに構造化された目や耳と考えるべきだろう。つまり、目や耳は、何かを見分けたり、何かを聞き分けたりする器官になっている、ということである。このとき、アニメは、すでに、複雑に構造化されていると言える。目や耳は、多様な情報を処理できる器官になっている、ということである。


 もう少し別の観点から、娯楽としてのアニメについて考えてみよう。それは、物語という観点からである。物語とは、言ってみれば、われわれが対象を認識するためのファインダーだと言える。断片的な情報を、われわれの幻想の枠組に沿う形で、ひとつにまとめるわけである。もちろん、そうした枠から抜け落ちてしまう情報もあるわけだが、物語の役割とは、そんなふうにして、対象の特性を制限するところにあるだろう。つまり、言うなれば、物語とは、調理における火のような役割を果たしているのであり、それは、われわれに対象を受け入れやすくしてくれるものなのである。
 こんなふうに考えれば、物語とは、間違いなく対象に備わっているものではない。つまり、個々のアニメ作品のうちに物語が内在しているわけではない。アニメというものは、もっと雑然とした素材であり、その素材を、われわれは、適当に切り分けて、受容しているのである。
 娯楽としてのアニメとは、このような認識の枠組としての物語に関わっている。つまり、そのような枠組にぴったりと収まるような作品が出てきたとき、それは快楽を与えるものになると言える。そうした点で、むしろ、僕が注目したいのは、そのような枠からこぼれ落ちるもののほうである。それは、言うなれば、われわれが目にしたくはないものであり、耳にしたくはないものだと言える。しかし、そうしたものを含んでいるものも、またアニメだと言える。


 手塚治虫は、アニメの本質を「変身」というところに見ていた。手塚治虫はこんなことを言っている。

 ぼくは〝変身もの〟が大好きです。
 なぜ好きかというと、ぼくは、つねに動いているものが好きなのです。物体は、動くと形が変わります。いつまでも、静かだったり、止まっているものを見ると、ぼくは、イライラしてきます。動いて、どんどん形が変わっていくと、ああ、生きているんだな、とぼくは認め、安心するのです。
 ぼくはちいさいころ、よく、こんな夢を見ました。なんだかわからないグニャグニャしたものが、ぼくのペットなのです。ぼくは、そのペットを連れて町を歩いています。そのグニャグニャしたものは、人間のようになったり、ウサギや犬や鳥になったり、奇妙な怪物に変わったりします。ぼくはそれを、すごくかわいがって友だちのように仲よくしているのです。
 ぼくは、アニメーションにこり出したのもアニメだと、この変身――メタモルフォーシスが自由に、奔放にできるから夢中になってしまったのでしょう。
手塚治虫漫画全集『メタモルフォーゼ』あとがき)

 実を言うと、このブログのタイトルは、この手塚治虫の言葉から借用したのだが、それはさておき、僕は、この手塚治虫の夢の話を読んで、薄気味悪さを覚えた。さらには、一種の卑猥さも感じた。手塚治虫は馬鹿に楽しそうに書いているが、実際にこんな夢を見たら、かなりの悪夢になるのではないだろうか? われわれは、むしろ、物体が固定し、同じ姿のままであることのほうを望むのではないだろうか?
 僕は、この手塚治虫の文章を読んで、『火の鳥 未来編』に出てくるムーピーという生物のことを思い出した。この生物は、それこそグニャグニャしていて、腐敗物のような醜い格好をしているが、相手の望むままに、自由に姿を変えられるという特殊な能力を持っている。さらに、その生物は、相手に夢を見せることもできるのである。この不定形の何かこそ、アニメの原点にあるものなのではないだろうか?
 さらには、この文章から、手塚治虫の一貫したテーマである「生命」の問題も見出すことができる。手塚治虫の問題にしたかった生命とは、生きていることのかけがえのなさ、個人の生命の唯一性などというものではないだろう。手塚治虫の視線は、おそらく、個人とか個体とかのレベルを大きく越え出ている。例えば、『ブラック・ジャック』のピノコなどが、そのいい例だろう。
 ピノコの存在は、端的に言って、奇形である。それは、人間になることができなかった人間である。人間の身体の一部に別の人間がはまりこんでいる。こうした事態を引き起こすのも、また生命ではないだろうか? これは、われわれ人間にとっては、一種の逸脱行為、失敗やミスのように見えるが、しかし、生命の次元にとっては、これは、失敗でもミスでもないだろう。「生命の神秘」とは、まさに、こんなふうに、われわれの理解を越え出たものに直面したときに言われるべき言葉であり、そのような不可解さを手塚治虫は追究していったのではないだろうか?


 さて、アニメに話を戻すと、アニメとは、まさに、こんなふうに、不安を掻き立てるジャンルでもあると言える。それは、まさに、身体と密接に関わったジャンルであり、不気味さとエロティシズムを常に内包しているジャンルだと言える。こうした観点が、娯楽としてのアニメにおいては、しばしば無視されているように思える。アニメというのは、一昔前は、子供だけのものと考えられていたわけだが、それは当然のことで、子供というものは、残酷なことと卑猥なことを最も好むからである。
 「娯楽」という観点以外にも、もちろん、アニメを見ることについて問題にできる観点はあるが、そうした観点については、また次の機会に話してみたい。