今日のリアリティ――『コードギアス』とその周辺

寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平
http://d.hatena.ne.jp/ashizu/20061017#1161083125


 以前書いたこの文章の中で、僕は、『コードギアス 反逆のルルーシュ』を『機動戦士ガンダムSEED』と同じ地平から見ることを提案した。しかし、提案しただけで、実際に『コードギアス』について検討することはなかったので、今回は、『コードギアス』について、別の角度からの問題提起も少し含めつつ、問題にしてみることにしたい。


 僕が『ガンダムSEED』に見出したもの、それは、世界の狭さとでも言うべきものだが、このことは、必ずしも否定的な意味でだけ言っているのではなく、その狭さが現在の社会のリアリティを捉えているという点で、肯定的な意味も含めて言っているのである。こうした世界の狭さは『コードギアス』にも見出せるし、『コードギアス』がそれと似ていることを指摘される『DEATH NOTE』にも見出すことができるだろう。しかし、それでは、果たして、ここでもたらされているリアリティとはどのようなものだろうか?


 ここで重要になってくるのが、まずは、情報というものである。単に、情報の量だけが問題なのではなく、情報の質もまた問題だと言える。つまり、われわれの世界認識を構成する情報の質がここでは問題なのである。


 例えば、『DEATH NOTE』であるが、これは、まさに、情報ということを問題にした作品だと言えるかも知れない。ノートで人を殺すための二つの条件である顔と名前は、この作品では、貴重な情報として価値を持っている。顔と名前の一致が個人のアイデンティティを支えており、それが即、個人の存在そのものとなっているのである(そこでの個人の規定は「他に同じ人間はいない」という否定的な形で与えられている)。


 さて、問題にしたいのは、そこでの情報の質であるが、名前と顔を知るという、それだけでは大した価値を持たない情報が、この作品では、人の生死を左右するという重大なものに格上げされているのである。さらに、顔と名前との一致は、そこで個人の同一性が問題になっているだけに、重要な問題を提起していると言える。つまり、ライトもルルーシュも、ある意味、自分の名前を隠しているのであって、キラという名前、あるいは、ゼロという名前が自分の名前であることが明らかになるとき、そこで大きな質の変化が生まれると言えるだろう。


 こうしたことについてリアリティを感じるための社会的な事例をひとつ上げれば、ネットに流出する個人情報というものがそのようなものだと言えるだろう。個人情報のひとつひとつはささいなものであっても、それがいくつか組み合わさると、重要な意味を持つことになる、ということはありえることだろう。これは単に情報の量が増えたということではなく、情報の質が変化したのである。


 また、もう少し別の角度から情報というものを見てみれば、その情報がどこからやってきたのかということがその情報の質を決定する、ということがありうるだろう。今日のサブカルチャー作品において、携帯電話は、もはや、何の違和感も与えることなく、風景の一部に溶け込んでいると言えるが、携帯電話がわれわれの世界認識にどのような影響を与えているのかということを考えるのは重要なことであるだろう。


 例えば、非常に早い例である『新世紀エヴァンゲリオン』の「鳴らない電話」であるが、ここで逆説的な形で示されていることの意味を考えることは重要なことだと言える。つまり、そこでは、携帯電話が鳴らないという否定的な意味合いが重要性を持つことになるのである。ここで示されているのは、人間の意識に関わる何かというよりも、無意識に関わる何かだろう。このことは、『ほしのこえ』において見事な形で描かれていると思うが、まさに、非常に遅れてやってくるメールが、記憶の想起の代わりになっていると言えるのである。人が知りたくないこと、忘れ去ってしまったこと。そのような切り離された記憶を喚起するものとして、携帯が人間の無意識の役割を担っているとは言えないだろうか?


 さて、情報というテーマからは少し離れて、別の観点から、今日のリアリティについて考えてみることにしたい。『SEED』、『DEATH NOTE』、『コードギアス』という三つの作品に共通しているのは変革というテーマである。まさに、この点こそが、リアリティの消失する点であり、同時に、逆説的な形で、リアリティが生じる点でもあると言えるだろう。


 変革のリアリティのなさ。なぜリアリティのなさを感じるかと言えば、そこに何かしらの短絡があるからである。デスノートの力にせよ、ギアスの力にせよ、それ自体は、非常に無力なものではないだろうか? 言わんや、ガンダムを操縦できる力など些細なものだろう。注目すべき点は、変革の芽は別のところにあるということである。この点は、『DEATH NOTE』にしろ『コードギアス』にしろ、上手く描いていると思われるが、つまりは、キラやゼロを望んだのは大衆だった、ということである(『SEED(DESTINY)』において、大衆は、例えば、デュランダル議長の口車に乗って暴動を起こすというふうに、悪い形で描かれている)。


 この点をもっと厳密に見てみれば、上記の三つの作品には、やはり、相違点があると言える。『SEED』の場合は、やはり、あまりにも個人の力を過大評価していると言えるだろうし(個人が立ち上がることによって変革は起きる)、『DEATH NOTE』の場合、最終回などを見る限り、個人の力を非常に小さく見積もっていると言えるだろう(個人がいくら努力したところで、全体が変わらなければ、結局は元に戻ってしまう)。


 こんなふうに、個人の力によって変革を起こすということには、さしたるリアリティがないわけだが、逆に、そのような人物がヒーローとして(ダークヒーローとして)待望されるということには、リアリティを感じずにはいられないだろう。ここで問題になることは悪をなすということであるが、それが、どのような善と悪との対立図式の中に位置づけられるのかという点が注目に値するところである。


 旧来のヒーローものにおいては、善の側に立つ主人公は、万人にとって悪である存在と闘う限りにおいて、その善という立場を維持することができたと言えるだろう。今日の作品に見出すことができる困難さとは、こんなふうにして万人にとって害を与える存在を描くことにリアリティが失われたことである。万人にとっては悪ではないが、一部の人たちにとっては悪の存在というものはある。しかし、逆に言えば、その存在は、また別の一部の人たちにとっては善の存在である。つまり、そこで、この部分的な悪を攻撃することは、そこで部分的な善を損なうという点で、その人物は悪の存在だと言えることになる。ここで現われてくるのが、キラやゼロのような、待望される悪の存在(ダークヒーロー)ではないだろうか?


 興味深い点は、こうしたダークヒーローの存在を許すことのできない人物、例えば、『SEED』のキラ・ヤマトや『コードギアス』のスザクもまた、ダークヒーローと共に描かれていることである。こうした人物は、まさに、旧来の作品のヒーローだった人物だと言えるだろう。キラ・ヤマトやスザクが昔のヒーロー作品に登場したら大活躍したことだろう。彼らは、力のある人物として描かれているが、いくら力を持っていたとしても、部分的にでも悪をなす人物と比べると、身動きが取れない状態にあると言える。彼らにとっての困難は、自らの手を汚すこと、悪をなすことなのである。


 こうした善悪の問題に、先ほど述べた情報の質の問題を組み合わせてみれば、ほんの些細な行為が重大な結果を招く行為へと変質する瞬間というものを見出すことができるだろう。ノートに名前を書くという些細な行為が人を殺すという重大な結果をもたらす。そのギャップの驚きは、例えば、読み切り版の『DEATH NOTE』のマンガに見出すことができる。普通の少年にはこのギャップは耐えられないのである。その点で、連載版の『DEATH NOTE』は、このギャップに耐えることができる夜神ライトというキャラクターの創造によって始まったと言えるだろう。悪を悪と知りつつ悪をなすことができる人物。この強さこそが、ダークヒーローの魅力だと言えないだろうか?


 二重生活・三重生活というのも、情報の質が変化する状況のひとつだと言えるだろう。それぞれの状況のうちには一貫性が保たれていても、それら分裂した状況をひとつのものと見なしたときに、破綻がもたらされる可能性があるのだ。従って、多重人格あるいは多重生活とは、そうした破綻が起きないために取られる防衛処置だと言えるだろう。


 ライトにしろルルーシュにしろ、彼らは、ある程度、自覚的に悪をなしているわけだから状況は異なるが、今日において想像される最悪のシナリオとは次のようなものではないだろうか? つまり、何の悪意もなく、毎日行なってきた些細な行為が、あるとき、その質を大きく変化させ、あと戻りすることのできない決定的な結果をそこにもたらす、というものである。これは、ある点で、非常にカフカ的な状況と言えるかも知れないが、われわれが何気なく行なっている毎日の消費行動が、世界のどこかで、誰かを殺しているということを、まったくの荒唐無稽な話だと言い切ることはできないだろう。


 今日のリアリティを言葉にすることは非常に難しいことだが、安易な物語を持ってきて、それで事足れりとすることはできないだろう。われわれの現実とでもいうべきものをすくい上げる必要がやはりあるように思える。その点では、『ガンダムSEED』にしろ、『DEATH NOTE』にしろ、『コードギアス』にしろ、現実の一部を反映しているという点で、注目に値する作品であるように思えるのだ。