『ぼくらの』と倫理的問題(その7)――他者を傷つけても自分が生き残るべきなのか?

 アニメ版のチズとマンガ版のチズとはかなり異なっている。アニメの『ぼくらの』は、マンガの『ぼくらの』に見出されるチズの憎しみを緩和している。もっと言えば、チズの覚悟とでも言うべきものを緩めているのである。


 チズには死ぬ覚悟ができている。だからこそ、チズはカコを殺すことができた。カコだけではなく、彼女のことをレイプした男たちも殺すこともできた。しかし、アニメ版においては、このようなチズの殺人行為はまったく描かれていない。カコはチズによって殺されるのではなく、建物の崩壊によって、つまり、事故によって死ぬ。カコを階段から突き落として気絶させたことに対してチズは罪悪感を抱いているが、ただそれだけのことである。マンガ版のチズには罪悪感などというものはない。彼女の行動原理は罪滅ぼしなどというものからはほど遠いものだからである(むしろそれは復讐である)。


 カコは、どうせ死ぬのだから何をしたっていい、という考えを持っていた。しかし、彼は、実際のところは、何もできなかった。チズもまた同じような考えを持っているが、「何をしたっていい」という漠然としたものではなく、もっとはっきりとした目的を持っている。つまり、彼女にとって重要なことは、彼女が戦闘に勝ってこの地球が存続するとしても、自分のことを苦しめた人間がその世界に存在することが許せない、言い換えれば、自分の死が自分の憎むべき人間の利益となることが許せない、ということである。


 自分の憎むべき人がいない世界。これがチズの望む理想の未来の世界であり、彼女の死後存続することを望む世界であるだろう。そして、こうした世界は、ダイチが望むような、自分の愛する人たちが生き残っている世界というものとは対照的な世界であると言えるだろう。


 チズにとって、人を殺すことの正当性とは、彼女が受けた損害にその根拠があると言える。彼女はレイプされただけでなく、ジアースに乗って地球を守るために死ななければならない。そして、その結果、お腹の中にいる子供も死ななければならない。なぜ私が死ななければならないのか、とチズは自問する。この問いに対して、彼女は、「個人の死にたいした意味はない」という非常に冷めた結論を出す。つまり、人間が死ぬことに理由はない。しかしながら、「私」が死ぬことの欠損は絶対的なものである。つまり、それを埋め合わせるものは何もない。それゆえに、彼女は、単に自分の恨みを晴らすためだけでなく、この世界の無意味さを受け入れるために、人々を殺すという決断をしたのではないかと思われるのである(チズは、自分のことをレイプした男たちだけでなく、その周囲にいる無関係な人間たちも巻き込んで一緒に殺すが、そこに迷いはない)。


 だが、こうした決意を揺るがすものがある。それがチズの姉の存在である。チズの姉はチズとは対照的な人物として描かれている。この違いは、言ってみれば、性善説性悪説との違いである。チズの考えは性悪説的である。この世界の不幸とは人間の欲望によって生じるものであり、個人の欲望とは、結局のところ、自分の利益のために他者を食い物にするということである。それゆえ、彼女は、まさに、このような考えを証明するかのごとく、自分が悪人となって人を殺す。それに対して、チズの姉は、世界の不幸の原因というものを個々の人間の欲望というものに見出してはいない。だからこそ、チズの姉は、チズに対して、すべてを「受け止めてあげる」と言うことができたのであり、こうした姉の存在だけが、チズのニヒリスティックな世界観を根底から揺るがすことができたのである。


 畑飼とチズの姉との対照も重要だろう。畑飼は、言ってみれば、バトルロワイアル状況における強者、そうした状況に最も上手く適応できる人間である。彼は、ゲームのルールを心得ていて、そのゲームにおいて、どうしたら最大限の利益を引き出せるのか、ということを常に考えている。その点では、自分の身近にいる人間以外の他者とは、自分の利益のために利用される道具に過ぎない。つまり、チズは、畑飼に利用されたわけである。この点で、チズは、相手がそのように振る舞うのであれば、自分も同じように振る舞おうと考えるわけである。これに対して、チズの姉は、バトルロワイアル状況において、場合によって、弱者になりうる人間であると言える(「悪い人にだまされて損ばっかりする人生」)。そして、さらには、この『ぼくらの』という作品において、まさに、倫理的問題が提出されるのは、こうした弱者たちに対して、バトルロワイアル状況における不適応者に対してである、と言えるだろう。


 ここにおいて問題になっていることは、単なるサバイバルではなく、どのような点から見たら、他者と比べて、自分の存在のほうが価値があると言えるのか、ということである。他者が生きるよりも自分が生きるほうがいい。これは単に「死にたくない」ということではなく、自分の存在の価値はどこにあるのかということなのである。カコは、おそらく、そうした確信がなかったために、他者を傷つけることができなかった(キリエを除いては、夢の中でしか憎むべき人間たちを殴ることができなかった)。カコの逃亡とは、単に死にたくなかったから逃亡したというよりも、他者を傷つけたくなかったから逃亡したと言えるだろう。こうした問題は、ナカマについても言えることであり、彼女が誰かを殴ることができたのは、その生のほとんど最後の瞬間であった。


 チズもまた、人を傷つけることに躊躇している人物である。畑飼を最初にナイフで殺そうとしたときに、彼女を止めたものとは自分の子供の存在だった。畑飼を傷つけることはできるかも知れないが、自分の子供に傷をつけることはできなかったわけである(「この子の母親を犯罪者にしないために」。そして、また、チズは、自分の姉を傷つけることもできなかったために、ニ度目に畑飼を殺すこともできなかった)。ここに立ち現われてくる問題とは、バトルロワイアル状況においては、つまり、現代社会のある局面においては、他者を傷つけることなしには自分を生かすことができない、ということである。こうした点で、生きている人間の中で自分の手を汚していない人間はいない。それを意識しているかいないか、鈍感か敏感かという差はあるにしても、われわれは常に他者を食い物にしているわけである。


 この点で、『ぼくらの』という作品は、今後、他者を殺すことという主題を前面に押し出すことになる。キリエの物語において、非常にはっきりと描かれるように、そこで殺さなければならない人間とは、チズのときのような憎むべき人間なのではなく、自分と同じような弱者なのである。


 この苦しみこそが、この『ぼくらの』という作品を根底から駆動させている原動力であり、倫理的問題が提出される原点にあるものだと考えられるのである。


 次回は、このような他者との関係を、恋愛における三角関係という非常に分かりやすい形で描いている門司邦彦(モジ)の物語を見ていくことにしたい。