『ぼくらの』と倫理的問題(その8)――なぜ自分が生き残らなければならないのか?

 モジの物語で描かれている三角関係は、他者との競争的関係(バトルロワイアル状況)を、非常に分かりやすい形で示している。つまり、そこにおいては、自分の死は相手にとっての利益になるのであり、逆に、相手の死は自分にとっての利益となる。しかしながら、この『ぼくらの』という作品は、他者との競争的関係を、非常に独特の観点から問題にしている。つまり、そこにおいては、単に勝ち残る人間が問題となるのではなく(サバイバルが問題となるのではなく)、むしろ、負けて死んでいく人間が問題となっている。作品の設定に則してもっと正確に言えば、勝ちながらも死なざるをえない人間が問題となっているのである(自分の利益か相手の利益かという二者択一ではない第三項の存在が問題となる)。


 この点において、モジとナギという二人の競争者は、勝つこととは別のことを考えなければならないという点で、お互い同じ立場に立っている。つまり、二人とも、自分が死ぬということを考慮に入れなければならないので、愛する女性(ツバサ)を手に入れるという目的とは別のことを考えなければならないのである。愛する女性を競争相手に絶対に委ねないということ。これは、ナギが考えていたようなひとつの勝利の形である。自分は手に入れることができないが、相手も手に入れることができない。これはまた、チズのやっていたことでもあるだろう。彼女は、自分が死ぬということを口実にして、何人もの人間を殺害した。同じようなことは、アニメ『地獄少女』にも言えることであるが、そこで駆け引きの材料にされているのは、相手の現世の生と自分の来世の生である(自分が地獄に落ちることによって、相手を地獄に突き落とす)。


 だが、モジとナギは友人同士であり、かつ、ツバサの未来というものを考えるときに、競争的関係とは別のことを考えなければならない。モジは、初め、チズと同じように、ナギを殺そうと考えていた。これはツバサを手に入れるためである。しかし、モジは、自分が死ななければならないということが分かったときに、ナギに自分の心臓を譲る決意をした。これはツバサの未来のことを考えてのことだろう。モジは、ナギに自分の心臓を渡さずに死ぬという選択を取らなかった。そこまでの悪意はモジにはないわけである。


 ここで潜在的に問題にされているのは代替可能性である。競争的関係、バトルロワイアル状況は、言ってみれば、代替可能性とは対極的な価値観を育むことになる。つまり、そこにおいては、生き残ることそのものに価値があり、生き残ったものは必然的に他のもの(負けて死んだもの)よりも優れているという点で、他のものとは取り替えることのできない価値ある存在であると言える(これはコダマの優生思想的な考えである)。しかし、代替可能性がはっきりしている状況においては、自分が生き残ってもいいし、相手が生き残ってもいい、ということになる。自分の生と相手の生との間に優劣の差はない。むしろ、差がないからこそ、なぜ自分が死ななければならないのか、あるいは、なぜあいつが死ななければならないのか、という問いが生じることとなる。


 モジは、自分が死ぬことを「罰」として考えた。友人を殺そうと考えたことの報いなのだ、と。こんなふうに自分の死に意味づけをすることができるのは、ある意味、幸せなことだろう。というのも、彼は、後のことを残された人たちに託して、死んでいくことができるからである。それに対して、生き残ったナギのほうは、ひとつの問いを抱えることになる。つまり、なぜ自分が生き残ったのだろうか、自分のいったいどこに生き残るべき価値があるのだろうか、と。このような問いを抱えるほうが非常に深刻であるように思える(こうした問いは、他の人よりも価値ある生を送らなければならないという強迫観念へと容易に移行することだろう)。


 なぜ自分が死ななければならないのかという問い(カコやチズの問い)と、なぜ自分が生きなければならないのかという問い(ナギの問い)とは、ほとんど同義だと言える。こうした問いが出てくる背景にはバトルロワイアル状況があるのであり、つまりは、自分の生というものが他者の犠牲の上に成り立っているからである。むしろ、そうした状況においては、生き残っていくことのほうが非常に大きな困難を抱えることになると言えるだろう。他者の死というものを、多かれ少なかれ、そこで背負っていかなければならないからである。


 代替可能性の問題は、次のマキの物語とキリエの物語に引き継がれていくことになる。この二つの物語においては、他者を殺害すること、つまり、自らの手を汚すことというテーマが前面に出てくる。そして、そこで殺さなければならない相手というのが、自分の憎むべきような人物なのではなく、自分とまったく同じような、自分が死んでも相手が死んでも同じような、等価な生の存在なのである。このときに、自分は死ぬのが嫌だからという理由以外に、相手の生よりも自分の生のほうを優先させる理由というものがあるのかどうか、という問いが提起されるわけである。


 こうした点から考えるのであれば、バトルロワイアル状況における「生きていかなければならない」という理由づけは、それほど根拠のしっかりしたものではないということが分かる。むしろ、バトルロワイアル状況の要請とは、そのような希薄な生に積極的な意味づけを行なうための必死の試みと言えないだろうか? 言い換えれば、それは、代替可能な生がそのほとんど無意味な生に積極的な価値を与えるための苦肉の策だと考えられるのである。


 そうだとするならば、やはり、事態の出発点である希薄な生というものに留まるべきだろう。そこでの生の希薄さを性急に埋め合わせることなく、むしろ、その希薄さを突き詰めてみるべきだろう。そうした方向性が、この『ぼくらの』という作品において、少なくともキリエのエピソードまでは、保持されているように思えるのである。


 次回は、初めてあえて人を殺すという選択をしたマキの物語を見ていくことにしたい。