『ぼくらの』と倫理的問題(その9)――代替可能な存在のために自らの手を汚すことができるのか?

 マキの物語から、あえて人を殺すということが問題になる。それは、コダマの物語で描かれていたような殺人とも、チズの物語で描かれていたような殺人とも異なる。コダマの物語で描かれていたのは、犠牲者としての人の死だった。それは、意識的に行なわれる殺人というよりも、無意識的に行なわれる殺人であると言える。それは、言ってみれば、「未必の故意」である。つまり、競争的関係、バトルロワイアル状況においては、負けたものが死に至るという可能性が常にはらまれているのであり、そんなふうにして負けて死ぬことは自己責任として処理される、ということである。


 チズの物語において行なわれる殺人の背後には、具体的な他者に対する憎しみの感情があった。しかしながら、マキの物語からはっきりと意識されることになる殺人行為(自分たちの闘っている敵もまた自分たちと同じ人間であるという事実を知った上で相手を殺すこと)には、他者に対する憎しみの感情というものは存在しない。自分と対等な人間、自分とは何の関係もない人間を殺す必要があるのであり、その殺人の総数は、地球ひとつ分、つまり、100億人もの規模になるのである。


 こんなふうにして殺人を犯すことの正当性を、マキは、彼女なりに持っている。それは、つまるところ、自分の家族を守るということである。これは、ダイチの闘うことの理由と同じであり、そうしたことは、次のキリエのエピソードで軍人の田中が語ることと関連がある。つまり、そこで田中が語るように、人間の命に優先順位をつけることは可能である。自分の身近にいる人間のほうが、自分とはまったく無関係の人間よりも価値がある、ということである。


 こうした優先順位のつけ方は、コダマにおける優先順位のつけ方とは異なることだろう。コダマの考えとは、優秀な人間が生き残るべきだというものであり、こうした考え方は、自分にとって大切な人の命のほうが大事だという考え方とは相容れないことだろう。ここに競争的関係と家族的関係との対立が見出せるのであり、アニメ版の『ぼくらの』は、ほとんど結論的に、この家族的関係の重視を強調している。しかしながら、この立場に立つとすれば、そこにおいて、倫理的な葛藤というものはほとんど起こらないことになるだろう。なぜなら、自分にとって大切な人を守るということが決定事項ならば、そして、自分の闘っている相手も自分と同じ思いで闘っているということを慰めにできるのであれば、他人を殺すことは比較的容易なことだと考えられるからである(「みんな辛いんだ」と思うことによって、それ以上、問いを先に進めないことが可能となる)。この点に対する疑問を欠いている点で、アニメ版の『ぼくらの』は、倫理的な問題の提出という点においては、不十分なところがあるのだ。


 アニメ版よりもマンガ版の『ぼくらの』のほうが問いを深めていると言えるのは、そこに、代替可能性の問題を導入しているからである。つまり、そこで問題になっていることは、自分の固有性などというものはないということであり、『エヴァンゲリオン』の綾波レイではないが、「自分が死んでも代わりはいる」ということなのである。


 この代替可能性の問題は、マキのエピソードにはっきりと現われている。つまり、マキは養女であり、まさにマキが戦闘に参加しようとするときに(つまりマキが死ぬときに)、養父母に実際に血の繋がった子供が産まれようとするのである。もちろん、マキも、養父母も、代替可能性の問題を言葉に出すことはない(「初めての子供」はマキである)。しかしながら、マキにとっては、自分の代わりが生まれるということが、自分が死ぬことの、そして、非常に多くの人間を殺すことの理由づけになっているのである。


 代替可能性の問題を突き詰めたのが次のキリエの物語である。そして、キリエの物語において、この『ぼくらの』という作品は、ひとつのクライマックスを迎えると言える。


 競争的関係と家族的関係との対立は、この代替可能性の位置づけと関わっている。つまり、競争的関係において問題になっていることは代替可能性であり、そこで重視されるのは、端的に能力であり、ある個人の唯一性などというものは問題にはならない。それに対して、家族的関係においては、取り替えのきかない個人の唯一性が問題となる。他の誰かでは駄目なのであり、その人でなければならない。


 僕は、以前にも述べたことであるが、この二つの関係が、とりわけ現代社会においては、決して全面的に対立することはなく、むしろ、それぞれ補完し合っているところがあると思っている。そうした点では、家族的関係とは、競争的関係に対する一種の緩衝材のようなものとして考えることができるだろう。この点では、アニメ版の『ぼくらの』が家族的関係を重視しているのもよく理解できる。つまり、それは、現代日本社会において、われわれが(とりわけ孤独な人間たちが)必要としているものを示唆しているのである。


 だが、そのことは、われわれの社会の一面を描いたに過ぎないことだろう。今日の問題とは、カコの物語が描いていたように、家族的関係を形成しない(形成できない)孤独な人間がいる、ということではないだろうか? 家族を構成できなくなっているその原因を問題にしない限り、家族の形成をいくら勧めても、それはほとんど無意味であると言えるだろう。


 マンガ版の『ぼくらの』においては、家族的関係の重視というものは、いくつかある選択肢の中のひとつにすぎない。そうした回答に満足することなく、『ぼくらの』という作品は、問いを前に進めるのである。


 そこで光ってくるのがキリエの物語である。この物語は、ほとんど物語とは言うことができず、二つの対話から成り立っている。そこで語られていることは、『ぼくらの』という作品における暫定的な総括であるように思われる。次回、この点を詳しく見ていくことにしたい。