『ぼくらの』と倫理的問題(その10)――自分の傷つきやすさを他人にさらけ出すことができるか?

 キリエの物語は二つの対話から成り立っている。ひとつはキリエと畑飼との対話であり、もうひとつはキリエと田中との対話である。


 畑飼という人物は、チズの物語を論じたときにも問題にしたように、競争的関係、バトルロワイアル状況において、そこでのゲームを最も上手くプレイすることのできるプレイヤー、最も有能なプレイヤーとして描かれている。彼は、この(バトルロワイアルという)ゲームについてはよく知っていて、このゲームから最大限の利益を引き出すことができる。


 この畑飼との対話において、キリエは、彼個人としてだけ、畑飼と話をしているのではなく、彼の身近にいる二人の人物、つまり、チズと彼のイトコの和子の代理を務めるような形で、畑飼と話をしている(この二人の他に、さらに、カコを付け加えてもいいだろう)。


 チズは、言ってみれば、バトルロワイアル状況において、負けた人間である。彼女は、そのゲームにおいて、畑飼に負け、結果、畑飼に大きな利益をもたらすことになった(もちろん、チズのほうにも、まったく何も得るものがなかったわけではないが)。畑飼は、他人を傷つけることを厭わない人間であり、他人を自分の利益の道具と考えている(あらゆる他人がそうではなく、彼にとって、チズの姉は特別な存在である。つまり、そこには、大切な存在とそうではない存在との区別がつけられている)。


 バトルロワイアル状況においては、他人を傷つけることが、すなわち、自分の利益になることであり、自分が利益を獲得するためには他人を傷つけなければならない。このことが、まさに、キリエの物語において、中心的に問題となっていることである。


 そうした点から見てみるならば、キリエのイトコである和子は、他人を傷つけることのできない人間だと言える。和子が友人と共に自殺しようとしたというのは、おそらく、誰かを傷つけないためだったろう(自殺の理由は明示されていない)。しかし、自殺をすることは、誰かを悲しませることでもある。そうした思いがあったために、彼女は、自殺できなかったのかも知れない。いずれにしろ、彼女は、自殺した友人の死を背負う結果となり、「生きることも死ぬこともできなくなった」のである。


 畑飼がキリエに言ったことというのは、つまるところ、こうした和子のような人間を否定することであり、それは、チズやキリエ自身のことをも否定しているだろう。畑飼には、他人を傷つけることに対する罪意識のようなものが決定的に欠けている。つまり、そのような問題意識がないゆえに、和子のような人間のことを、ゲームのプレイの仕方が下手だという理由で、否定することができるのである(畑飼の主張とは、簡単にまとめてみれば、自己責任論である。自己責任論とは、簡単に言ってしまえば、機会は誰にも与えられているのだから(いわゆる「機会の平等」)、そうした機会を有効に活用できるかどうかは本人次第で、結果、その機会を上手く活用できなかったら、それは、本人の努力が足りなかったからだ、という考えである(「何か問題が起きた時に、その原因を自分以外の他人に求めようとするのは駄目な人間に共通のよくない癖だ」))。


 もうひとつの対話であるキリエと田中との対話においては、この他人を傷つけることについての視点が取り入れられている。この視点は、キリエの前のマキの物語において問題になっていたことであるが、田中の主張したいこととは、生命に優先順位をつけることはできる、ということである。つまり、傷つけていい他人と傷つけてはよくない他人がいて、その間に区別をつけることは可能である、ということである。この観点は、まさに、畑飼の観点にも取り入れられていることであり、つまるところ、この点においては、畑飼と田中の価値観は同じだと言えるのである(そこでの違いというものは、畑飼の場合は、他人を積極的に傷つけて自分の利益を増やそうと考えているのに対して、田中の場合は、やむをえない場合、他人を傷つけることもありうるという消極的な立場を取っているというものだろう)。


 自分の生命や自分の愛するものの生命を守るためなら、他人を傷つけることも厭わない。こうした考えをキリエが持つことができないのは、そこに、代替可能性の問題が介入してくるからである。つまり、キリエは、自分が有能なプレイヤーだとは思っていない(「ぼくはどうでもいい存在。いてもいなくてもいい、いても困らないけど、いなくても困らない」)。自分が生き残っても他人が生き残っても同じと思っている以上に、自分が生き残るよりも他人が生き残ったほうがいいのではないかとすら思っているのである。


 キリエの物語に散見される代替可能性の問題。これが、バトルロワイアルの基本原則(有能なものが生き残り、生き残ったものが有能である)を揺るがすのである。コダマの物語ですでに示されていたように、人間の死というものは突然訪れ、生き残るべき有能な人間が偶然にも死ぬ場合がある。和子が抱いている疑問というのは、このような「なぜ自分は死ななかったのか」という疑問だろう(この疑問はモジの物語においてすでに提起されていたものである)。和子の家の数軒隣の家は、ジアースによって踏み潰されたのだが、それが自分の家だった可能性もある。そのような偶然の選択は、「お前は生きるべきだ」というメッセージとして積極的な意味を与えることもできるだろうが、だとすれば、なおさら、「なぜ自分が生き残らねばならないのか」という疑問も出てくることだろう。


 ある個人が生き残っているその背後で、誰かが傷ついて死んでいる。だからこそ、生き残った人には、生き続ける責務がある、というふうに考えるのが田中である(「私達は生まれながらにして、生命に対して業と責任を背負っている」)。しかしながら、この田中の論理には、やはり、飛躍があると言わざるをえない。生きていることそれ自体が罪を生み出すことだったとしても、だからこそ、その罪を背負って生きていかなければならないというのには(あるいは、自分や家族の生命を守るために、人を殺さなければならないというのには)、飛躍がある。むしろ、そのように考えるのであれば、さらに罪を犯すことも容易になってしまうことだろう。そこには倫理的葛藤が消えてしまうことだろう。


 キリエは、こうした田中の考えをそのまま受け入れたわけではない。彼は、そこから、もう少しだけ問いを進めるのである。


 生きていることの罪、そこで生じる傷が、この物語においては、リストカットでつけられた傷として描かれている。それは、和子の手首にある傷であり、キリエが闘うことになった相手のパイロットの手首にある傷である。この傷は、他人を傷つけたその傷であり、他人を傷つけたことに対する自罰の傷でもある。このような傷つきやすさを他人にさらけ出すことが、キリエの物語のクライマックスで問題になっていることである。こんなふうに、自分の傷つきやすさをさらけ出す行為は、キリエの相手のパイロットだけがやっている行為ではなく、まさに、キリエ自身のやった行為でもある。つまり、頑丈で強固な巨大ロボットの中にいるのが、壊れやすい一人の人間である、という事実を示すことがキリエにとってひとつの賭けだったのである。


 傷つきやすさをさらけ出すこと、自らの弱さをさらけ出すこと、これは、バトルロワイアル状況においては、ほとんど自殺行為だと言えるだろう。それは、相手の利益にはなるだろうが、自分の利益になるような行為ではない。しかし、だからこそ、この行為は強烈なメッセージになりえたのである。自らの傷をさらけ出すこと、それは、したくないことをやらなければならない、ということの表明ではない。バトルロワイアル状況において自分は苦しんでいるということの単なる表明ではない。そうではなくて、代替可能な生のはかなさやもろさがそこで示されているのである。


 バトルロワイアルがでっち上げているのは、生き残った生の高い価値であるが、そこに、偶然性というファクターを取り入れるのであれば、生き残っているということは、単に、誰かを犠牲にして自分が生きているということだけを意味していることだろう。生き残っていることに意味はなく、ただそこには、傷だけがある。こうした無意味で理不尽な苦痛に耐えてわれわれは生きているということ。自分ひとりだけがそうなのではなく、われわれみんながそのようにして生きているということ。そうしたことを確認し合う行為が、傷をさらけ出す行為なのである。


 どんな人間も傷つきやすい存在であり、その点では、誰もが同じである。だから(同じ条件だから)相手と闘わなければならないというのは、やはり、そこにも、飛躍があることだろう。この時点においては、問いはその先まで進んでいない、ということである。『ぼくらの』は、まだ連載中の作品であり、この先も物語は続くわけだが、この『ぼくらの』論自体は、このキリエの物語のところで、やめることにしたい。というのは、このキリエの物語が、まさに、作品全体のひとつのクライマックスだと思われるからである。


 『ぼくらの』という作品は、現代生活に対して、ひとつの問いを提起した作品である。その問いとは、われわれの生活にとって、生きること(生き残ること)だけが、あらゆる価値の根拠になるのだろうか、という問いである。こうした問いを提起している作品(マンガやアニメ)は、他にもいくつもあるが、その多くは、結局のところ、生きることそれ自体の価値を再評価するという結論にしか行き着いていないように思える。『ぼくらの』という作品は、まず、登場人物たちがロボットを操縦すれば必ず死ぬという設定を導入することによって、生き残ることに価値があるというテーゼに対して疑問を提出する。自分が生き残ること以外のところに、生の根拠を見出そうと模索するのである。ここで重要なのは、そこでどのような結論が提出されるのかということよりも、そのように問いを提出することによって、今日的な倫理の問題を提出する場所を開いたところにある。従って、この『ぼくらの』という作品は、今日的な様々な価値観を解体して吟味するための実験場のような作品なのである。


 僕は、この作品を読んで、現代人の孤独さというものを感じずにはいられなかった。その点で、アニメ版が提出するような価値観(家族的関係の重視)とは、少しばかり、距離を取らざるをえなかった。ある孤独な個人とそれとは別の孤独な個人。そうした二人をすぐさま結びつける前に、そうした個人の水準で提起される問題、とりわけ倫理的な問題を吟味してみるべきだろう。いわゆるセカイ系の物語というのも、結局のところは、こうした孤独な個人を問題にしている物語だと言える。小さな集団の小さな物語(日常的な物語)が一方にあるとすれば、孤独な個人の擬似的な大きな物語が他方に存在する。この二つの物語は、対立しているわけではなく、現代人の生を位置づけるための二つの異なった方法だと言えるだろう。僕としては、もっと個人的なものを突き詰めていきたいという思いがあるので、今回の議論を同様の観点から、また違う議論へと繋げていきたいと思っている。


 「世界はこんなに美しい。世界はこんなに素晴らしい。おそらく、たとえ私が傷つけられても」。コモの物語に出てくるこの言葉は、まさに、セカイ系の観点を端的に示している。代替可能な「私」の存在は、世界全体にとっては、ほとんど無意味なものである。いてもいなくてもいい存在である。しかしながら、美しい世界というものが立ち上がってくるためには、「私」がこの世界からいなくなって、「私」がひとつの傷にならなければならないのである。言い換えれば、そこには、「私」の存在の痕跡が残っているのである。『ぼくらの』の想像されうる最終回とは、おそらく、主要登場人物が誰もいなくなった世界だけがそこに存在している、というものだろう。仮に、読者がその世界を美しいと思えるとすれば、それは、われわれが登場人物たちの存在の痕跡をひとつひとつたどっていったからに他ならない。「私」のいない世界を想像すること。これが、『ぼくらの』の提起する倫理的問題の出発点であり、セカイ系の問題構成を一歩進めた結果である。