『ぼくらの』と倫理的問題(その4)――家族を守るために死ぬことができるのか?

 闘いに負ければこの世界は滅びるが、闘いに勝っても自分の命はなくなる。このような状況において、それでも、なおかつ、闘いに勝つことに意義を見出すことができるとすれば、それは、自分の死後に生き残る人たちのために闘う、ということである。これは、まさしく、ダイチの物語において問題になっていることであるが、この水準においては、個人の生よりも大きなものが問題になっている。つまり、この水準においては、個人の死というものが、超えられている。そこでの希望というものは、自分の死後にも何か残るものがあるということ、他人に引き継がれる何かがあるということである。


 しかしながら、ダイチの物語に加えられたひねりというものにもっと注目してみるべきだろう。ダイチは「家族のために」死のうとするわけだが、しかしながら、この行為は、矛盾をはらんだ行為となっている。つまり、ダイチは、両親のいない妹や弟たちの親代わりになっているのであり、彼がいなくなることは、妹や弟たちを見捨てていくことと同義なのである。このことは、ダイチたち兄弟姉妹を残してどこかに行ってしまった父親のことを想起させるし、つまるところ、ダイチの行為は、この父親の行為を、ある点で、反復することなのである。


 ダイチの行為の微妙な点をもっと強調してみよう。ダイチが守りたいのは家族である。敵と闘って勝つことは地球を守ることを意味し、結果、家族を守ることにも繋がる。しかし、ダイチのやろうとしている行為(戦闘行為)は、家族に直接関わることはないので、ダイチの兄弟姉妹たちは、ダイチが父親と同じように、どこかに行ってしまったとしか思わないことになる(このことをフォローするために、アニメ版の『ぼくらの』のラストでは、生き残ったカナがダイチの弟や妹たちに、ダイチのことを語って聞かせるというシーンを挿入している)。


 ここにあるギャップは非常に重要である。つまり、ある意味、地球を守ることと家族を守ることとは直接関係のある行為ではない。ダイチが強制的にやらざるをえないこと、そのことを受け入れるのに、ダイチは、ある意味、家族を守るという物語を自らに吹き込んだと言えるだろう。しかし、ダイチたち兄弟姉妹にとって、真に幸せなことは、ダイチも含めた家族全員がそろっていることであり、それが最終的にできなくなったということ(みんなで遊園地に行くことができなくなったこと)が、ここで、家族を守るために自己犠牲的に死ぬという行為に対して差し向けられている若干の疑問であると言えるだろう。


 後に明らかになる設定から、ダイチの物語が成立するための条件というものを考えることができるだろう。その設定とは、つまり、闘っている相手も自分と同じ人間であるということである。このことをダイチは知らないがゆえに、彼は、自分の家族のことと戦闘に巻き込まれる人たちのことだけを考えることに専念できるのである。つまるところ、ここで(潜在的に)提起されている倫理的問題とは、相手を殺してもなお、自分たちの家族を守るべきかどうか、言い換えれば、人間の命に優先順位をつけることができるのかどうか、ということである。


 ダイチは、自分の闘っている相手が人間だとは知らないので、この時点で問題になっていることは、自分の命を賭して守るべきものがあるのかどうか、ということだけである。言い換えれば、個人的な利益を越えた価値というものを想定することができるのかどうか、個人の生をその個人を越えたものに繋げることができるのかどうか、ということである。ここに立ち現われてくる価値というものが家族であり、さらに言えば、愛する人や物である。愛する人や物を守るために死ぬという物語は、非常に多くのサブカルチャー作品において、いわゆる自己犠牲という形で、繰り返し描かれ続けているので、こうした倫理的立場は、大した葛藤なく、受け入れられることだろう。


 前回の最後に提出した問い、家族的関係がなぜ競争的関係の解決になるのかという問いに答えてみることにしよう。ここで価値づけられているのは、(競争的)対立ではなく協調(や連帯)という考えである。個人の利益を、他人との比較で、最大限に上げることが目指されているのではなく、あるグループの利益を重視するということが目指されているのである。しかしながら、そこには、もちろん、複数のグループ同士の対立というものが想定されることだろう。そうだとするならば、狭い意味での家族的関係とは、ある限定されたグループの利益だけを重視する立場であり、もっと広い意味での家族的関係とは、あらゆる人間と協調関係を結ぶことを(理想的に)目指すという立場であることだろう。だとすれば、『ぼくらの』の設定であるバトルロワイアル状況は、このような広い形での協調関係を不可能にするような設定であると言える。なぜなら、そこでの闘いには引き分けはなく、勝ったほうが生き残り、負けたほうは滅びることになるからである(あらゆる人間と協調関係を結ぶことはできない)。


 従って、そこには、どうしても厳しい倫理的問題が残ることになる。つまり、自分の守りたいものを残すためには、誰かを殺さなければならない、ということである。そして、おそらく、このような選択をあえてする人は、今日において、非常に多いように思われるのである。つまり、この点において、人の命に優先順位をつけることはできるわけである。しかし、だとすれば、この立場は、ある種の優生思想を持っていたコダマの立場に非常に近づくことになる。生き残る人間と死すべき人間がいる。おそらく、ダイチは、生き残れるのなら、可能な限り多くの人を生き残らせるべきだ、というふうに考えていることだろう。しかし、問題になっているのは、そういうことではなく、誰かを生き残らせるためには、誰かを殺さなければならない、ということなのである。


 この問題を真正面から取り扱った最近のアニメ作品として、『天元突破グレンラガン』の名前を上げることができるだろう。『グレンラガン』において扱われていた問題も同じで、すべての人間が生き残ることができない場合、いったい誰を生き残らせたらいいのか、逆に言えば、いったい誰を殺せばいいのか、ということである。『グレンラガン』のストーリー展開においては、結局のところ、こうした倫理的問題は棚上げされてしまったと言えるだろう。つまり、このような苦渋の選択をするよりも、すべての人間が生き残れるという道を模索したほうがいい、というわけである(しかし、これは、場合によっては、すべての人間が死ぬ可能性のある道でもある)。


 しかしながら、ダイチの物語においては、そこまで問いが深められてはいない。ダイチの物語とは、すでに崩壊しているにも関わらず、その崩壊をまだ直視できていない家族の物語だとも言えるだろう。なぜ、ダイチは、誘いを受けているにも関わらず、叔父の家に厄介になろうとはしないのか? それは、父が失踪したという事実を、ダイチ自身が認めたくないからである。「親父の帰れる場所を残しておきたかった」とはそういうことだろう。ダイチが親代わりになって働くことで、ダイチの家は、その崩壊を辛うじて免れることができている(父が戻れば元の家族のままでいられる)。しかし、ダイチがいなくなってしまえば、この家族は崩壊してしまう。少なくとも、以前の家族と同じ家族は維持できなくなってしまう。ダイチにとって最も苦しいことは、自分が死ぬことではなく、このような崩壊した家族の姿に直面することだろう。


 ダイチの守りたかったものとは狭い意味での家族である。そこでは、顔の見える範囲での人が問題になっている。それに対して、次のエピソードであるナカマの物語においては、むしろ、広い意味での家族が、共同体の維持が問題になっている。自分のよく知っている人や愛すべき人のためなら自分の命を投げ出すこともできるだろう。それでは、自分の知らない人たちのために、他人のために、自分の命を賭けることができるのだろうか? こうしたことについて、次回、問題にしてみることにしたい。