『ぼくらの』と倫理的問題(その5)――自分の望まない義務を果たさなければならないのか?

 ナカマの言う「全員は全体の奉仕者」という言葉の意味とはどのようなものだろうか? ここで提出されている観念は、ダイチの場合とは違って、もっと広い範囲でのグループ、自分が見知っている範囲以上のグループが問題になっている。言ってみれば、そこで問題になっているのは、私と対立する公である。つまるところ、ここで言う「全体」とは公のことであり、もう少し限定的に考えれば、そこでは、ひとつの共同体が問題になっている。その共同体に所属する人間は、その共同体の利益になることを積極的に行なうべきだ、ということである。


 このとき問題になることと言えば、それは、自分の知っている人や自分の好きな人以外の人間に対しても、奉仕活動をしなければならない、ということである。さらに言えば、自分のやりたくないことでも、共同体のためならば、しなければならない。ナカマにとって、ロボットに乗ることはそのような意味を持っているのであり、ナカマの物語において、そのことは、「掃除」という見事な事例によって、象徴されている。


 掃除(学校での掃除と町内会での掃除)というものは、言ってみれば、個人のレベルにおいてはやりたくはないが、全体のためになるためにやらなければならない、一種の義務である。しかし、ナカマのクラスメイトのように、誰かがそれをやるのであれば、自分があえてそれをする必要はないと考える者もいることだろう。


 こうした点から考えるのであれば、確かに、多くの共同体においては、その共同体全体を維持するために、不快なことを一部の人間にだけやらせる、ということは十分ありうることである。『天元突破グレンラガン』で描かれていたように、村の秩序を守るために、何人かの人間が、場合によっては、村を出て行かなければならないこともある。ナカマにとって、地球を守るために闘って死ぬということは、そういうことであって、彼女は、やらなければならないことをやるために、自らの命を失うことを受け入れるのである(「死にたくない」けれども「どうしようもない」)。


 バトルロワイアル状況、あるいは、競争的関係においては、まさに、このような全体への奉仕という考えがほとんど出てこないことだろう。そこで優先させられるべきことは、個人の利益であって、あえて個人の利益を損なうような行為は、極力、忌避されることだろう。こうした観点からするならば、ダイチのような、愛するものを守るために死ぬという行為も、まだまだ個人的なものであると言える。


 もし、仮に、愛すべきものや守るべきものがない場合、あえて、個人的な利益を損なうような行為をすることができるのだろうか? こうしたことが問題になっているのが、ナカマの次のエピソード、加古功(カコ)の物語である。カコにとっては、ダイチやナカマのように、個人の生を越えた水準に、何か価値あるものを見出すことができないわけである。言ってみれば、カコにとっては、自分が死ぬことを受け入れることができるような口実を与えてくれるものが何もないわけである。


 カコは、言ってみれば、非常にみっともない死に方をしたわけだが、しかしながら、このようなカコの水準においてこそ、現代的な問題を考えるべきではないだろうか? 現代という時代は、個人化が様々な水準で進んでいる時代である。これは、単に意識の変化というよりも、生活状況の変化と言ったほうがいいだろう。現代生活を生きるわれわれにとっては、小さなグループのことを想像することはできても、それよりも大きな水準のまとまり、共同体というものを想像するのは、非常に困難であるように思えるのである(あるいは、様々な中間領域を飛び越して、個人と日本国家とが短絡的に結びつく)。


 われわれは、おそらく、ダイチのように考えたり行動したりすることは容易にできるだろう。つまり、自分の見知っている人たちのために、自分の利益を損なってまで、何かをする、ということは容易にできることだろう(愛する人のために死ぬことはできるだろう)。しかし、ナカマのように考えるためには、いくつかの条件が必要であるし、また、カコのような、非常に孤独な人間もたくさんいることだろう。世界がどうなろうが日本がどうなろうが知ったことではない、と思っている人たちは、おそらく、非常にたくさんいることだろう。


 ナカマの置かれている状況が少し特殊であるように思えるのは、ナカマは、おそらく、マイノリティのサークルに所属していると思われるからである。マンガの中では、それほど明確には描かれていないが、おそらく、社会の中で、弱い立場にある者たちのネットワークに所属しているはずである(ナカマの母は売春婦であり、かつ、シングルマザーである)。だから、ナカマには公共意識があるのだ、というわけではないが、そんなふうに、同じような境遇に置かれている者同士ならば、他人と連帯をすることも容易であるだろう(しかし、それは、どうしても、閉鎖的かつ排他的なグループになってしまう可能性があるだろうが)。


 それに対して、現代の孤独な人間たちにとっては、そのような連帯の可能性が奪われているのではないだろうか? 彼らは、言ってみれば、バトルロワイアル状況に置かれているがゆえに、他人と連帯することが難しくなっていると考えられるのである。バトルロワイアル状況においては、個人の利益を最大限に上げることが原則となっている。これは、単に、意識の問題ではない。意識の問題ではなく、そのような分断状況に置かれているということが問題なのである(他人に奉仕することが、結果、自分にとって損になる場合が多々ある)。


 だとするならば、連帯の可能性にすぐさま飛びつくよりも、絶望的ではあるが、それでも、なおかつ、バトルロワイアル状況に留まりつつ、新たな可能性(希望)を見出すという道を模索する必要があるのではないだろうか? つまるところ、カコのような人間のことを考える必要があるわけである。カコ、本田千鶴(チズ)、キリエという三人の同級生は、同種の問題を抱えていると言える。ここには、一種、絶望的な生の地平が開かれているのである。


 さて、カコについては、また次回、詳しく問題にすることにして、ナカマの話に戻ることにしよう。ナカマの物語においても、ダイチの場合と同様、自分の闘っている相手が同じ人間であるということは分かっていない。しかし、たとえ、分かっていても、問題は、ナカマにとって、同じであることだろう。つまり、やりたくないことをしなければならない、ということである。こうした状況にあって、ナカマのやったこと、つまり、戦闘服を作るということは、外的な義務に従って行なった行為ではなく、内的に設定した(自分で設定した)義務に従った行為だと言えるだろう。つまり、ロボットに乗って敵と闘って死ぬということは、外部から押しつけられた義務であったわけだが、戦闘服を作るということは、自分で設定した義務であり、それをやり遂げたことが彼女にとってひとつの救いになったのである。


 ナカマの物語においては、自分が望んでそうしたということが重要な価値基準になっている。彼女の母が売春婦でありながら、「堂々としていられる」のは、まさに、そのような状況を自分が選択したこととして受け入れているからである。ここにおいて、ナカマは、自分の望んだこととそうではないこととを明確に分けていると言える。これまでナカマにとって問題だったことは、周囲の人間から後ろ指を指されないようにすることだった。そのために、彼女は、やらなければならないことをやってきた。しかしながら、重要なことは、やらなければならないことをやることだけでなく、やらなければならないこととやりたいこととを明確に分けることだろう。ここに立ち現われてくるのが積極的に受け入れられた生であり、死によって限定された短い生を自分のものにするための試みだと言えるだろう。


 これに対して、カコの生は、その軸足がまったく定まっていないと言えるだろう。まさに、彼においては「逃げる」ことが問題になっているのである。いったい、彼は、何から逃げているのか? そのことについて、次回、問題にしてみることにしたい。