『機動戦士ガンダムSEED』とセカイ系

 2000年以降のサブカルチャー作品で、『機動戦士ガンダムSEED』とその続編である『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』とは、非常に重要な作品であると言える。その理由は、この二つの作品が、小状況を描いた作品が主流である中で、徹底的に大状況に焦点を合わせているからである。さらに言えば、これらの作品は、大状況を描きつつも、セカイ系になっていない、という点が注目に値する。セカイ系作品は、小状況(小さな物語)が大状況化された作品だと言え、今日においては、このような形でしか、大状況を描くことは困難であるように思える。そうした点で、『SEED』には、一種の歪みのようなものが見出されるのである(もちろん、セカイ系も、ひとつの歪みだと言えるが)。


 『ガンダムSEED』とセカイ系との違いはどこにあるのか? それは、端的に言って、『ガンダムSEED』で目指されているものが社会秩序の安定である、というところにある。つまり、そこでは、戦争を引き起こす存在が悪のレッテルを貼られており、平和というものが最も価値あるものになっているのである。
 『ガンダムSEED』と『最終兵器彼女』における戦争の描かれ方の違いに注目してみよう。『最終兵器彼女』においては、戦争は、日常生活の外部に存在するものである。それは、完全に外的なものであり、特撮作品の怪獣のように、ふいに現われ、ふいに立ち去っていくようなものである。それは、人間の手によって生み出されたものというよりも、自然災害に近いものである。戦争に対して、登場人物たちは、完全に受け身であると言っていい。
 これに対して、『SEED』の戦争は、戦争をやっている人たちがいるという点で、(登場人物たちの生活にとって)内的なものである。『DESTINY』のデュランダル議長のように、戦争を起こしたい人物がいて、実際にその人物は戦争を引き起こすのである。加えて、主人公たちは、職業軍人である。セカイ系作品のように、何の社会的な地位にも就いていない少年や少女が主人公であるわけではない。つまり、戦争というのは、ここでは、登場人物たちが活躍する舞台になっているわけである。


 このようにいくつか差異がある一方、『SEED』とセカイ系とは、非常によく似たところもある。場合が場合であれば、『SEED』もセカイ系作品になっていたことだろう。おそらく、『SEED』をセカイ系作品にしなかった最大の原因は、力への信頼とでもいうべきものがそこにあるからである。つまり、セカイ系の作品においては、主人公が自らの無力さを自覚することから出発するのに対して、『SEED』の場合、自身の力への極度の過信があるのだ(この違いの背景には、伝統的なヒーローものの作品に対しての態度の違い、というものがあることだろう)。
 『SEED』とセカイ系とを分ける決定的な瞬間とは、大切なものを守るという場面において、主人公がどのような行動を取るのか、というところに見出すことができる。『SEED』の根底にあるのは、次のような疑問である。「今現在、戦争が起こっている。その戦争を止めたいと思っているが、果たして自分ひとりでどうにかなるものなのだろうか?」。この問いに、「どうにかなる」と答えているのが『SEED』である。それに対して、セカイ系の物語においては、大切なものは、ことさらに、個人的なものになっている。『ノエイン』が見事に描いていたように、そこで課題になっていることとは、まさに、自分との闘い、個人の精神的・心理的な問題である。


 しばしば、セカイ系作品は、その視野の狭さが批判の対象となるが、そうした視野の狭さは、『SEED』に対しても言えることである。『SEED』に存在していないのは他者である。『SEED』には対立が描かれてはいるが、その対立は、結局のところ、ひとつのもの(原理主義的価値観、自分の考えを相対化しないこと)に収束するような対立である。ザフト地球連合も、やっていることは同じである。キラたち第三勢力についてはどうか? キラたちの勢力は、ザフト地球連合という二つの勢力に対して、それらの価値観を相対化する役目を果たしているが、問題点は、そのようなキラたちの立場を相対化するものが出てこないという点にある。つまり、そこにあるのは、相対主義という名の絶対主義であり、ここから先に行くことができない点が、『SEED』の提示している困難さだと言えるだろう。
 セカイ系作品の歪みは、小状況と大状況とが短絡的に結びつけられているところにある。日常生活の小さな世界と全世界の危機という大きな世界とがそこではパラレルな関係になっているのである。これに対して、『SEED』の歪みとは、小状況が大状況のうちに、完全にはまりこんでいるところにある。つまり、そこには、大状況しかないのである。この点で(大状況が中心に描かれているという点で)、『SEED』とセカイ系とは、非常によく似ているわけだが、小状況に足場を置いているのか(セカイ系)、大状況に足場を置いているのか(『SEED』)、というところに違いがあるわけである。