寄る辺なき透明な存在の叫び――『機動戦士ガンダムSEED』の開いた地平

 『コードギアス 反逆のルルーシュ』を第二話まで見た。この作品の第一話を見たときにまず思ったのは、このアニメが『機動戦士ガンダムSEED』に非常によく似ている、というものだった。この既視感は、プロデューサーの竹田菁滋の力によるところが大きいのではないかと思われるが、それは、ともかくとして、いったい『ガンダムSEED』が開いた地平とはどのようなものだったのか、ということを改めて考えてみるべきだという思いに強く駆られた。今後、『コードギアス』がどのような物語を展開していくのか分からないが、そのことについて考える前に、『ガンダムSEED』のことをもう一度よく考えてみるべきだと思ったわけである。


 僕は、このブログで、『ガンダムSEED』の重要性を何度も強調しているが、その重要性を適切に位置づけるのは、なかなか困難な作業だと思う。『ガンダムSEED』は、何かを終わらせて何かを開始したのであり、『ガンダムSEED』以前以後ということが言えるようなひとつのメルクマールだったのであり、ひとつのスタイルを作ったのだと言えるのである。なぜ、そのようなことが言えるのかということを、今日もまた、ひとつの側面から述べてみたいと思う。


 例えば、『エウレカセブン』と『ガンダムSEED』とを比較してみたとき、いったい何が言えるだろうか? 『エウレカセブン』は、『ガンダムSEED』とほとんど同時代の作品と言えるが、しかし、『ガンダムSEED』の影響をほとんど受けていない作品、『ガンダムSEED』と別の路線を行く作品だと言える。『エウレカセブン』が『ファースト・ガンダム』の遺産を引き継いだ作品であることは明白である。それは、『ガンダム』と『エヴァ』の直系であることを自称している作品であると言えるだろう。だが、『ガンダムSEED』についてはどうだろうか? この作品が、ある種の原点回帰をしていることは間違いない。『ファーストガンダム』のモチーフをいくつも借用していることは間違いない。しかし、この借用の仕方は、『エウレカセブン』と大きく異なると言っていいだろう。その違いとは何だろうか?


 第一の基準、それは、否定か肯定かというところにあるかも知れない。『エウレカセブン』は否定の作品だと言えないだろうか? その根底にあるのは一種の自己否定である。『エウレカセブン』に見出されるものとは教養小説的な趣、旅をして、いろいろな人と出会い、結果、成長するという物語である。そこにあるのは自己否定、これまでいた自分の場所を否定して、新しい別の場所に移行することである(子供から大人へ)。これに対して、『ガンダムSEED』においては、自己の立場を極限まで推し進めていくという肯定の立場を見出すことができる。主人公のキラ・ヤマトの立場は不動の立場と言えるかも知れない。彼は動くことはなく、彼に反対するような立場、彼と意見を異にするような立場は、言ってみれば、彼の不動の立場を際立たせるために動員されているようにさえ見えるのである。


 『ガンダムSEED』においても、登場人物たちの悩みや葛藤というものを見出すことができる。しかし、そうした悩みや葛藤は、「なぜ分かってくれないんだ!」という絶叫に近いものだと言える。さらに言えば、それは、「なぜ自分の立場を承認しないのか?」、「なぜ自分と同じ側に立とうとしないのか?」という叫びに近いものである。こうしたところに、『ガンダムSEED』のセカイ系的なところがあるわけだが、この閉鎖性、この世界の小ささこそが、注目に値するものだと僕は思うわけである。


 『エウレカセブン』は、確かに、非常に味わい深い作品だと言えるし、アニメーションのクオリティも非常に高い。しかし、やはり、ちょっとした素朴な疑問を提示せざるをえない。いったい、どこに、旅をする場所などあるのだろうか? いったい、どこに、耳を傾けるべき意見を言う人がいるのだろうか? 旅をして、自分を見つめなおし、昨日までの自分とは違う新しい自分になること。そうしたことを夢見る人はたくさんいることだろう。しかし、そのようなことを思っている人が常に迷い続けているのが現代という時代なのではないのか? そもそも、最初に否定すべき自己などというものが希薄なのである。それゆえ、そこで求められているものは、確固としたアイデンティティであり、それを旅によって獲得することなどほとんど不可能に近いだろう(イラクで殺された香田証生さんのことをやはり思い出すべきだろう)。レントンには、そこから逃れたいものがたくさんあったが(レントンの父は英雄である)、果たしてどれくらいの人が、そのようなものを持っているだろうか?


 こんなふうに考えると、僕は、『ガンダムSEED』の提示している世界の狭さが現代という時代に非常にしっくりくると思うのである。そこにおいて射程に入っているのは自分だけであり、自分だけしか問題にはならない。なぜ、これほどまでに自分というものが問題になるのか? それは、自分というものがそれほどまでに希薄だからであろう。自己規定がしっかりしていれば、それほど自分というものにこだわる必要もないだろう。ここでの問いとは、あの月並みな問い「自分とは誰か?」であり、そこで充満しているものとは自己像の影なのである。


 今月から新しく始まったアニメ『Pumpkin Scissors』において、貴族と平民という階級差がことさらに強調されているが、このような所属階級の強調にも、アイデンティティの問題の反映を見出すことができないだろうか? 『ゼロの使い魔』にせよ、『英國戀物語エマ』にせよ、階級差を強調する作品において問題となっていることは、階級差の困難という形で立ち現われてくるアイデンティティの問題である。『ガンダムSEED』において、それは、ナチュラルとコーディネイターという人種間の差といった形でも現われているが、さらには、(『機動戦士ガンダムSEED DESTINY』において)カガリというひとりの王族によって、君主はいかにあるべきかという問題として示されている。


 君主はいかにあるべきかという問題は、『舞-乙HiME(マイオトメ)』においても、『DESTINY』とまったく同様の形で提起されている。マシロというひとりの主君が提起する問題とは、自分は本当に主君の名に相応しい人物なのかという問題であり、それは、つまるところ、アイデンティティの問題である。自分は、王として、いかに振る舞うべきか(果たして、王として、振る舞うことができるのか)。ここにおいて、ひとつの理想像として提示されているのが、確信に満ちた王であり、民衆の尊敬を集める王である。それは、端的に、強い王だと言えるだろう。万人が頼ることのできる強い王。言いかえるならば、そこで求められているのは、絶対に揺らぐことのない不動のアイデンティティという理想なのであり、それは単に個人のアイデンティティだけが問題となっているのではなく、臣民のアイデンティティがそこへと集約されるような確固とした要の点が問題となっているのである(同様のことが、まさに、『ガンダムSEED』にも言えるのであり、『DESTINY』のラストシーンでは、王宮に胸を張って入っていくカガリの姿が描かれる)。


 強さへの希求とは、つまるところ、確固たるアイデンティティの希求であり、『ガンダムSEED』という作品は、そのような強さというものに対して、ほとんど揺るぎない確信を抱いている作品だと言えるだろう。ここにこそ、おそらく、竹田プロデューサーが目指している(と思われる)「自主独立」の理想を見出すことができるのであり、自主独立するためには、確固とした基盤が必要だ、ということである。


 だが、しかし、今日、「お前は誰だ?」という問いほど、われわれを動揺させる問いはないのではないか? 社会的帰属を持ち出すことなしに、自分自身を提示することができる人間など、果たして、どれだけいるだろうか? 『ハチミツとクローバー』や『NANA』といった作品が問題にしていることも、結局のところ、そうしたことではないだろうか? つまり、自分は仲間内では一定の承認を受けているし、自分のアイデンティティを保つことができる。しかし、そのような仲間の外に出たとき、果たして、自分は何者なのだろうか? そのような問いが、そこでは問われているのではないだろうか?


 セカイ系作品でしばしば提示される不滅の魂は、酒鬼薔薇聖斗の「透明な存在」に響き合うところがある。不滅の魂とは、生死をも越えて、永遠に保たれるアイデンティティの核のことであり、セカイ系の典型的なカップルである「きみとぼく」は、その姿形が以前とはまったく違ってはいても、お互いをそれとして認めることができる(『神無月の巫女』のラストシーンを思い出してほしい)。そこには、お互いの間でだけ認めることができる特殊な印があるのだ。だが、その印を見ることができない者からすれば、そこには何もないことになる。つまり、それは、「透明な存在」だと言えないだろうか?


 それゆえ、確固としたアイデンティティを探し求めている人が望んでいることは、自身に刻印された見えない印を読んでくれることではないだろうか? そこで抱かれている希望とは、自分のことを適切に読んでくれる人がいるはずだ、というものだろう。「自分を適切な名前で読んでくれ!」。これは、まさに、酒鬼薔薇聖斗の犯行声明文に書かれていた要求であるが、この叫びこそ、「自分のことを分かってほしい」という嘆きが意味していることであるだろう。『ガンダムSEED』という作品は、こんなふうに、名前を呼ばれない存在の悲哀に満ちた作品であり、それゆえにこそ、多くの人の共感と反発を生み出すことになったのだろう。


 最近、マスコミを賑わせている自殺の問題について少し言及すれば、自殺という行為のうちには、悲しみと同時に怒りの感情を読み取ることもできるだろう。それは一種の告発行為である。何かを訴えるために焼身自殺をする人がいるが、同様に、あらゆる自殺行為は、常に何かを訴えていると考えられるわけである。そして、このことは、鬱についても言えるのではないかと思われるのである。フロイトは、メランコリーの背後に、他者への攻撃性を読み取ったわけだが、同様に、鬱について考えるとき、通常のイメージを逆転させて、そこに、怒りや憎悪といった負の感情を積極的に読み取るべきではないだろうか? そこで見出される怒りとは、端的に、この世に生まれてきたことに対する怒りに他ならない。


 おそらく、現在のわれわれが欲しているのは、そのような行き場のない怒りを差し向けるべき純然たる悪人の存在だろう。問題は、逆説的なことながら、われわれの周囲にはあまりにも善人が多すぎる、ということではないのか? ここでの隘路とは、『地獄少女』で描かれているような隘路だと言える。『地獄少女』の隘路とは、この作品に出てくるような悪人は、現実世界にはめったに存在しない、ということである。だから、われわれは、相手を地獄に突き落とすために自分が地獄に落ちる覚悟を決める必要性に迫られはしないが、同時に、やり場のない不満を常に抱えていなければならない状態に置かれていることになるのである。


 以上のように考えてくると、『コードギアス』の「反逆」というテーマも、ひとつの隘路という気がしてくる。しかし、この点については、結論を急がずに、作品をもう少し見たあとで、よく考えてみることにしたい。