人間の影の存在としての吸血鬼――アニメ『BLACK BLOOD BROTHERS』について

 アニメ『BLACK BLOOD BROTHERS(BBB)』を見ていて思ったことを少し。


 吸血鬼を扱ったアニメやマンガは無数にあると思うが、そもそも、なぜこれほどまでに、吸血鬼という存在が物語の題材になるのだろうか?


 吸血鬼とは何かと言えば、それは、簡単にまとめると、人の生き血を吸って永遠に生き続ける死者というものだろう。つまり、吸血鬼それ自体は死んでいて、自身が生き続けるためには、他人の生命である血を吸い続けなければならない存在というものである。この点で、『BLOOD+』において、吸血鬼のイメージがユダヤ人のイメージと重ね合わせられているその意図は、非常に明確であると言えるだろう。つまり、陰謀論の中に出てくるユダヤ人とは、まさに、吸血鬼のような存在、他者の血(財産)を吸って生き続ける闇に潜む不死の存在というわけである。


 手塚治虫の『ドン・ドラキュラ』に、吸血鬼は(他のモンスターと比べて)弱点が多すぎるというような台詞が出てくるが、この点で、『BBB』は、伝統的な吸血鬼観に忠実な作品だと言えるだろう。主人公の望月ジローは、確かに強力な吸血鬼であるが、日光にあたっても水をかけられてもダメージを受ける。しかし、ちょっとやそっとのダメージぐらいでは死なないという点で、非常に上手くバランスを取っていると言える。


 吸血鬼の本性は、まさに、この死ににくさにあるとも言える。なかなか死なないからこそ、それにつれて、弱点も多くなっていったのであろう。『ドン・ドラキュラ』の吸血鬼も、日光にあたると灰になるが、その灰に血液を加えると、すぐに復活する。


 吸血鬼に血を吸われた人間もまた吸血鬼になるという設定についてはどうだろうか? ここで問題になっているのは、種としての吸血鬼の繁殖性であるだろう。個体としての吸血鬼がなかなか死なないだけでなく、種としての吸血鬼もその繁殖性のゆえになかなか絶滅しないわけである。ジョージ・A・ロメロが描いたようなゾンビ(リビングデッド)の類型も、問題になっているのはその繁殖性であるだろう。個体としてのゾンビは動きものろいし、ほとんど脅威の対象にはならないかも知れないが、それが種のレベルで、集団で襲ってくるときに、それは脅威となるのである。


 吸血鬼を倒すという課題は、死者をいかにして殺すかという矛盾した課題だと言えるだろう。吸血鬼が死者の隠喩であるということは間違いない。吸血鬼が提起している問題とは、肉体の死を超えた何かが生き続けており、それを殺すためには物理的効果以上の何かが必要であるということである。この点で、吸血鬼は宗教的な領域と密接な関係を持っているのであり、問題は魂の次元に移されるのだと言える。


 映画『エイリアン』に出てくるエイリアンは、吸血鬼やゾンビのSFヴァージョンだと言える。その存在の特殊性は、それが人間の外にいる敵というよりも、人間の内側に存在している敵というところにあるだろう。つまり、それは、一種の寄生虫のような存在であり、人間に寄生することで成長するのであるが、さらには、それを破壊することが人間にとって多大の被害をもたらす存在である、ということでもある(エイリアンを傷つけると、そこから酸のようなものが飛び出し、宇宙船に大きな穴を空けることになる)。一刻も早くそれを消し去りたいが、それを消し去ってしまうと人間の側にも何らかの損失を被ることになってしまう存在。こうした一種の病原菌のような存在が、吸血鬼やエイリアンといった怪物たちの存在だと言えるだろう。


 吸血鬼というのは、つまるところ、人類にとって邪魔な存在であるが、しかし、それを容易に排除することはできない存在だと言える。まさに、死の領野がそのようなものではないだろうか? 死は生にとって敵対する領野というよりも、生に貼りついて、背後から生を規定している領野と言えないだろうか? こうした点で、吸血鬼との共存ということを描いている『BBB』は、かなり現代的な作品だと言える。人間たちを「レッド・ブラッド」と呼び、吸血鬼たちを「ブラック・ブラッド」と呼ぶことによって、人類と吸血鬼とを、同じ知的生命体ということで、等価に見ているわけである。


 吸血鬼は人類にとって影の存在だと言えるかも知れない。それは、人間と非常によく似ている存在であるが、しかし、その実はまったく対照的な存在である、ということだ。水木しげるのこだわる妖怪もそのような存在なのかも知れない。『ゲゲゲの鬼太郎』の鬼太郎は、幽霊族という種族の末裔ということになっている。つまり、鬼太郎の一族は、人類によってその生き場を失い、人の住まない場所でひっそりと生きている存在のことを指しているのである。水木しげるの直観とは、人間ではないが人間のような存在が確かにいる、というものだろう。目には見えない何かが存在するということ。これは、言いかえるならば、人間の存在がすべての存在ではないということ、まさに、人間の盲点、人間の影の場所に別の存在がいるということ、こうしたことを示唆しているのである。


 吸血鬼や妖怪というものは、そうした影の存在に与えられた名前でありイメージであるだろう。宇宙人というのも、そうした存在のひとつの名前かも知れない。われわれ人類は意志を持って行動しているが、同様に、意志を持って行動している存在がいるということである。光と闇の二元論は、あらゆる物語で絶えず語られている対立であるが、そこで示されていることは、光の出現によって闇が生まれたということである。光のおかげで何かが見えるようになったとすれば、逆に、目には見えない何かも同時に生まれたということである。この闇の存在は、光がそこにある限り、永久に拭い去ることはできない存在だと言える。


 果たして、すべてを光で照らし出すことは可能なのだろうか? そもそも、そこでの前提が間違っているのかも知れない。つまり、すべての闇に光をあてるべきだし、そうすることが可能だという前提が、である。光と闇は対立するのではなく、闇は光の裏面であるという発想をおそらく強調すべきだろう。今日のサブカルチャー的な文脈で言えば、敵というものをどのように位置づけるのかという問題である。おそらく、人間も吸血鬼も同じ生命体だという『BBB』の一歩では、不十分であるだろう。多様性を強調するだけでは、おそらく不十分である。


 敵対性とか対立性というものはやはり本質的な構造であると思うし、二項対立というのもそれなりの必然性を持っていると思われる。重要なのは、この構造の内側でどのようなずれをもたらすのか、ということである。こうした点で、今後も、サブカルチャー作品における敵の存在というテーマは非常に重要なままであることだろう。