可能世界の可能性――タイムリープと時間の不可逆性について

 ツガノガクのマンガ版『時をかける少女』を読んだので、この作品のモチーフから連想したことをいくつか書いてみたい。


 僕は、原作の小説を読んだことがないので、このマンガがどれくらい原作に忠実なのかよく分からなかった。しかしながら、この作品のモチーフが現代的であるということには異論がない。従って、この作品が今年アニメ化されたのも非常に納得のいくことである。つまり、過去に戻るというモチーフが極めて現代的だと思うわけである。


 よく、ファミコンなどのゲーム機に関連して、リセットということが問題になるが、そこで問題になっていることとは何なのだろうか? それは、もちろん、可逆性/不可逆性の問題である。時間は逆流しない。これは、死の絶対性の問題と関わっているが、しかし、厳密に言えば、やはり性質の異なる問題であるだろう。もし、人間が不死になったとしたら、時間の不可逆性の問題も同時に解決されるだろうか? これは、容易に答えが出ない問題のように思われる。解決される問題もあるだろうし、解決されない問題もあることだろう。いったい、そこで、何が問われているのかということを、やはり、もう少しよく考えてみる必要がある。


 ファミコンのゲームということで少し思い出したが、ファミコンのソフトの中で極めてタイムリープ的な作品と言えば、『ファイアーエムブレム』ではないだろうか? このゲームをプレイして、途中でリセットボタンを押さない人がいたとすれば、その人は、かなり強靭な精神の持ち主だと言える。ということは、逆に言えば、この作品ほど、人に死の絶対性(あるいは、時間の不可逆性)という観念を植えつけるものはなかった、ということである。手塩にかけて育て上げたキャラクターがあっさりと死んでしまい、もう二度とそのキャラが復活することはないというゲームシステムは、リアルであると言えばリアルであるが、同時に、なぜゲームという領野においてさえ、そのような苦痛を受けなければならないのかという反発心をも生み出したことと思われる。だから、多くのプレイヤーは、リセットボタンを押して、そのキャラが死ぬ前まで戻り、ひとりもキャラクターが死なないような物語を描こうとしたのであろう。


 ゲームと死の問題はしばしば語られるテーマであるが、僕は、ゲームというものがリアルな死を描けなくても、それがゲームの汚点になるとはまったく思わない。むしろ、ゲームというものは、死が存在しない世界だからこそ、魅力のある世界になっている、とさえ言ってみたくもなる。例えば、『ドラゴンクエスト』シリーズにおける死の表出が端的に表われている出来事とは、データの消失というものではないだろうか? 『ドラゴンクエスト』のゲーム内における死は、修復可能な出来事である。しかし、データの消失は取り返しがつかない。『ドラゴンクエスト』の三作目だったか四作目だったか忘れたが、データが消失したときに、ゲーム内でキャラクターが呪われたときの音楽が流れるわけだが、この設定は、開発者の少々悪趣味な観念を示していないだろうか? それは一種のブラックユーモアになっている。「あなたがこの音楽をゲーム内で聞いたとき、あなたはほとんど何も驚かなかったことだろう。というのも、ゲーム内での呪いは簡単に修復されるものだからである。しかし、この音楽をゲーム外で聞いたとき、さぞやあなたはびっくりしたことだろう。データの消失こそ、呪いの名に相応しい出来事ではないのか?」。こんなふうにして、『ドラゴンクエスト』シリーズは、逆説的な仕方で、リアルな出来事を指し示しているのである。


 最近、飲酒運転がらみで交通事故のニュースがよく報道されるが、そうしたTVの報道を見て少し思うのは、交通事故という、ある種の偶然的な要素が深く介入している出来事に対して、われわれ現代人の耐性が弱くなっているのではないか、ということである。つまり、言い換えれば、偶発的な事故よりも、必然的に起こったように見える殺人事件などのほうが、よっぽど耐えやすいのではないか、ということである。ここで問題となることは、なぜ、よりにもよって、自分が選ばれたのか、ということである。なぜ、自分が事故に遭わなければならないのか? なぜ自分の家族が事故に遭わなければならないのか? こうした問いに対して、「偶然そうなった」とか「運が悪かった」と言っただけでは、ほとんど何の答えにもなっていないと言えるだろう。人は、偶然起きたことでも、その連関というものを考えるものである。アニメ『君が望む永遠』で描かれていたように、偶然に起きたことだからこそ、当事者が過度に責任を感じる出来事もあるわけである。


 つまるところ、過去に戻るという発想の背後には、こんなふうに、因果連鎖を遡って、原因というものを位置づけ直そうという考えがあることだろう。それは、現在という謎についての答えを過去に探し求めようという発想だとも言える。現在が何かの結果であるとしても、その原因が判明ではないのである。


 有限なもの、これについて考えることが重要なのかも知れない。人生は有限である、時間は有限である。有限なものには選択がつきまとう。何でもできるわけではなく、何かしかすることができない。この有限なものの選択に、あまりにも個人の意志というものが関係してくると、人はその重圧に耐えがたくなるのかも知れない。


 別の人生を歩んだかも知れない自分というものを考えることは、意味あることなのだろうか? 『ノエイン』において問題になっていたこととは、まさに、そのような潜在的な可能性の地位に関わることだったろう。アクチュアルとヴァーチャルという対になった観念を用いれば、ヴァーチャルなものがここでは問題になっているのである。『ノエイン』に登場する他者としての自分の存在とは、まさに、そのような潜在的な影のような存在としての自分のこと、可能性としての自分の存在のことではないだろうか?


 人間にとって重要なのは現実であるよりも可能性である、ということが言えるかも知れない。有限性ということがことさらに意識されるからこそ、可能性ということもまた問題になってくるのかも知れない。ある人間の選択が意味を持つのは、その人間の別の選択の可能性との関係においてである、ということが言えるかも知れない。その選択がどのような結果を生じさせるかということよりも、他の選択の可能性がどのような結果を生じさせたかということとの関係で、その最初の選択の意味が決まってくるのである。


 アニメ『住めば都のコスモス荘 すっとこ大戦ドッコイダー』の第7話「栗華の夢でドッコイ」は、こんなふうに考えてくると、そうした可能世界との関係が目指すひとつの理想点を描いたエピソードだったと言えるかも知れない。このエピソードは、どこまでが夢でどこまでが現実なのかはっきりしないのだが、そこで目指されていることとは、前提を書きかえることによって、現実に変更点をもたらすことである。このエピソードでは、三回ほど、同じシーンが描かれる。そして、最終的には、そこで、決定的な変更がもたらされるわけだが、それは、この世界ではない別の(可能)世界で起こった出来事の結果、そうした変更がもたらされることになるのである。この飛躍、あるいは、収奪と言ったほうが適当かもしれないが、そうしたものの力を得ることは、われわれが、自らの可能世界に深く関係することによって起こりうることかも知れない。それは、夢を見ることと深く関係していることである。


 『新世紀エヴァンゲリオン』の劇場版の台詞が思い起こされる。「夢は現実の続き。現実は夢の終わり」という台詞である。しかし、この台詞は逆にしたほうがいいのではないか、とも思われる。つまり、「夢は現実の終わり。現実は夢の続き」というふうに。この逆にした台詞は、『コスモス荘』のエピソードの流れにまさに合致している。


 夢の続きとしての現実、現実の中に見出される夢のかけら、それこそ、まさに、あのラベンダーの香りが指し示しているものではないだろうか? それは、この世界に出現しえなかった世界の可能性の残滓だと言える。それは、まさに、何の実体もないものであるが、ただ香りだけは漂ってくるのである。これこそが、おそらく、真に思い出の名に値するものであるだろう。それは、実現しえなかった可能性の思い出なのである。


 この残滓としての思い出は、非常に今日的な事態だと言えるメラコンリックな喪失体験と密接な関係があるだろうが、その点については、また別の機会に取り上げることとしたい。