キャラクターの存在論――『つよきす』のアニメに関連して

 この前、アニメ『つよきす Cool×Sweet』の最終回を見たので、それに関連して、『つよきす』のアニメに関して少しコメントしてみたい。


 『つよきす』のアニメには、何というか、古き良きアニメの香りがする。80年代くらいのアニメやマンガ作品の影響の下に作られているという気がするのだ。もちろん、80年代の作品に影響を受けているアニメなど無数にあることだろう。そうした点で言えば、『つよきす』のアニメは、80年代作品の再現と言ったほうが正確であるかも知れない。


 『つよきす』を特徴づけているもの、それは、キャラクターにある。もっと言えば、キャラクターの固有性(キャラ固有の人格や性格のようなもの)と(物語上の)役割としてのキャラの特性との間の距離の近さに特徴があるのである。この点がまさに80年代作品を想起させるのだが、このことについて、いくつかの作品を例に上げて説明してみよう。


 例えば、『ちびまる子ちゃん』であるが、この作品の初期から中期以降への変化とは、キャラの出現の変化だと言える。つまり、作品の当初に出てきたキャラ、丸尾君とか花輪君とかは、委員長キャラやお金持ちキャラ(キザなキャラ)といったような、ことさらに記号的な役割を担わされているキャラクターだったと言える。これは、この作品が、もともと、誰もが共通して似たような経験をした出来事を描くという方向性を持っていたことを考えれば、そうした作品傾向に非常によく適合したキャラの割り振りだったと言えるだろう。キャラ固有の人格以上に、そのキャラクターが担わされている役割(委員長とかお金持ち)というもののほうが重要だったわけである。しかし、中盤以降から、『ちびまる子ちゃん』は、キャラクターマンガの色合いを強めていく。言い換えれば、個々のキャラクターが、記号的な役割よりも、固有の人格を前面に押し出すようになるのである(例えば、花輪君は、その母親との関係が描かれることによって、その深い内面まで同時に描かれることになる)。


 もうひとつ連想したのは、『ハイスクール!奇面組』である。『奇面組』においては、その個々のキャラクターは、そのキャラに担わされている記号的な役割とほとんど同化していた。そのことを顕著に示しているのが、個々のキャラクターの名前で、名前が即、役割を指し示していたわけである。『つよきす』においても、こうした役割と名前との密接な関係が見出せるわけであり、ヒロインの近衛素奈緒が名前に反して素直ではないといった若干の捻りももたらされているわけである。


 『つよきす』においては、『奇面組』と同じくらい、キャラの役割の割り振りが明確であると言える。個々のキャラは、自らの固有の人格から物を言っているというよりも、そのように割り振られた役割の上から物を言っているという感じがするのである。そして、このように割り振られた役割は、いわゆる萌え属性のあり方と大きな齟齬をもたらしているように思える。


 萌え属性とキャラに担わされた役割とは、やはり、別ものと考えたほうがいいだろう。『つよきす』の売り文句は「ヒロイン全員ツンデレ」のようだが、仮にそんなふうにヒロインが全員ツンデレだとすると、何人かの主要キャラクターをさらに差異づけるために、副次的な萌え属性が必要になってくることだろう。そして、そのときに、『つよきす』のアニメでは、副次的な萌え属性以上に、キャラに配分された役割というものが強く作用しているように思えるのである。


 委員長キャラというものがあるが、これは役割であると同時に、萌え属性としても認知されている。委員長として出てくるキャラは、類型的に、似たような言葉づかいをしたり、似たような性格をしているということから、そんなふうに類型化した諸特徴が萌え属性として魅力を帯びるようになったのだろう。僕は、萌えというものの背後には、すべて何らかの関係性があると思っているのだが、役割というファクターを入れて考えてみると、萌えが生み出される前提として、ひとつの役割(関係性)があると言うことができるだろう。つまり、役割それ自体が萌えの対象になるわけではないが、萌えが生み出される土壌にはなる、ということである。


 こんなふうに考えてみると、『つよきす』のアニメのキャラは、まだ役割の段階に留まっていて、そこから萌えを練り上げるまでには至っていないと言うことができるかも知れない。似たような問題を抱えている作品として、『魔法先生ネギま!』の名前を上げることができるだろうが、この作品は、キャラを大きく二つに分けることによって、萌えを生み出すことに成功しているように思える。つまり、焦点が当てられている主要キャラとそれ以外のその他大勢のキャラとの二分である。『ネギま!』においては、クラスメイト全員が女性キャラということで、それぞれのキャラの差異づけに、かなりぞんざいな特徴づけがなされているわけだが、そうした差異づけの段階から一歩進んで、特定のキャラを丁寧に描写する段階になると、そのキャラに独特の深みが生じることになる。そのときに重要になってくるのが、恋愛という要素である。個々のキャラが恋愛をするとき、そのキャラは、そのキャラに割り振られた役割以上の固有性を帯びることになる。『つよきす』においては、この恋愛の要素も役割として機能していると言えそうだが、少なくとも、『ネギま!』においては、個々のキャラが恋愛するのは、個々のキャラの役割を超えた地点においてである、ということは言えそうである。


 キャラクターにとって重要なのは、まず第一に、差異づけである。役割というものは、こうした差異づけの結果生み出されるということが言えるかも知れない。キャラの変容というものがありうるとすれば、それは、キャラの差異づけの変化だと言えるだろう。新しい登場人物が入ってくることによって、以前にそのキャラが占めていた役割が別のものに変化するわけである。萌えというものが生み出されるその背後に、こうした差異づけの機能があることは間違いないだろう。萌えとフェティッシュとが近接するのは、おそらく、こうした地点においてであろうが、そこにおいて、萌えもフェティッシュも、関係性の実体化、ネガティヴな差異づけの物神化という様相を帯びることになる。単に他のものとの違いを表わすに過ぎなかった記号が、積極的な意味を持ってくるようになるわけである。


 物語とキャラとの関係をもっとよく考えてみる必要があることだろう。キャラクターがもはや物語に内在していないことは間違いない。様々な二次創作物が示しているように、キャラクターさえいれば、無限に物語を作ることは可能である。それらの物語の間に矛盾や齟齬があったとしても、取り立ててそれが問題になるわけではない。場合によって、キャラの特徴づけが大幅に変更されても、特に問題があることではないと言えるかもしれない(『エヴァンゲリオン』のTV版最終話の綾波レイのように)。


 それでは、いったい、キャラの同一性を支えているものは何なのか、という疑問が湧いてくることになる。おそらく、それは、図像であるよりも、名前であることだろう。このことは、実際の人間についても言えることだろうが、あらゆる規定を超えて最後まで残るものとは名前、あるいは、もっと正確に言えば、名前が指しているとされている実体的な何かであるだろう。具体的に何か実体的なものがあるわけではなく、名前はその機能として、何か実体的なものを指し示しているように見えるという点が重要である。つまり、キャラクターは世界の中に存在しているということであり、このリアリティが今日の多くの作品を支えていると言える。この世界では、死者も、名前の上では存在しているように、キャラクターも存在する余地はあるわけである。おそらく、この存在の地位をよく考えてみることが、今日のサブカルチャー作品を解読するための大きな鍵になるのではないかと思うのだが、どうだろうか?


 しかし、いきなり抽象的な話に進む前に、もっと具体的に、個々の作品のキャラクターについて問題にしていくほうが重要かも知れない。萌えというのも、そんなふうにキャラを分類したり位置づけたりするためのひとつの基準であると言えるかも知れない。