コミュニケーションの再構築のために――アニメ『夏目友人帳』について

 現在『夏目友人帳』のアニメの第二シリーズが放送されているが、僕はまだ、第一シリーズのほうをちゃんと最後まで見ていなかったので、ひとまず、第一シリーズのほうを最後まで見てみた。第二シリーズを見る前に、この作品を見た感想をちょっと書いてみたい。


 この作品のアニメーションとしてのクオリティの高さを問題にするのはなかなか難しいが、ひとまず、そこで提出されている問題設定なりテーマ設定というところは、やはり非常に見事なものだったと思う。原作を知らないので、原作と比較して云々できないが、いろいろなアニメ化の方向性がある中で、基本的に非常に抑えた演出をしていたのはとても良かった。とりわけ、人間のキャラクターが、現在のキャラ化の方向性から言うと、どれも非常に抑えがちであったが、そうしたところは、この作品の作風と上手く合っているところだったと思う。


 妖怪ものの作品というのは無数にあるだろうし、何か特殊なものが見えることで疎外感を抱いている人物を描くという作品もいくつかあることだろう(『蟲師』や『もやしもん』など)。そうしたいくつかの作品のうちにあって、この作品がやや特殊だと思うのは、疎外感の克服という問題とコミュニケーションの再構築という問題とを非常に上手い具合に重ね合わて提出できているところである。


 ひとまず、この『夏目友人帳』という作品を、近代と前近代との差異を描いた作品と言うことはできる。近代化によって失われたものがあり、そのような失われたものにアクセスできる能力を持った人間が何人かいる。近代的な合理性によっては見えなくなってしまった前近代的なネットワークというものが存在し、そうしたネットワークの重要性をこの作品は強調しているのだ、と。


 だが、単純に、この作品は、そうした前近代的なものを復権させようとしているわけではないだろう。むしろ、この作品には、決定的に何かが喪失されたという喪失感が漂っている。言うなれば、人間は孤独になったということが決定的に印づけられているように思えるのである。


 一見すると、この作品は、人間は孤独になったということとは真逆のことを描いているように思える。人間は決して孤独ではなく、そのそばには常に誰かがいる。目に見えないだけで、その傍らには誰かがいる。孤独だった夏目が、妖怪たちとのコミュニケーションを介することで、養父母を始めとした人間たちにも心を開いていく、そのようなプロセスがここでは描かれているとも言えるだろう。


 しかしながら、人間に対する信頼性のようなものが、この作品で、素朴に提示されているようにはまったく思えない。疎外感の克服というものは、失われた前近代的なネットワークを回復することによって成し遂げられるわけではなく、やはり、コミュニケーションを改めて再構築することによって成し遂げられる、ということをこの作品はしっかりと描いているように思えるのである。


 その点で、夏目と田沼要との関係性は絶妙だと言える。単純に、妖怪が見える/見えないという枠組で問題を立てていたとしたら、このような関係性は描かれなかったことだろう。夏目も田沼も、妖怪が見えることで、疎外感を抱いていることは同じである。しかしながら、能力の差で、田沼に見えないものを夏目は見ることができる。従って、二人の疎外感は決して同質のものではない。この二人がともに孤独であるとしても、それらの孤独を同質には考えることができないのである。


 同質の疎外感を抱えている者同士が、そのことを拠り所にして、ひとつの共同性を確立する、というようなことは、しばしば目にすることのできる展開であるだろう。妖怪が見えることを否定的に捉えるのではなく、むしろ肯定的に捉え、そのことをもってして、妖怪が見えない者たちとの差異を作り出していく。このような考え方は、近代性を否定して、前近代的なネットワークを肯定するという流れに合致する考えだろう。だが、夏目と田沼との微妙な関係性は、このような分かりやすい対立図式を拒絶しているところがある。


 夏目と田沼との関係性は、まさに、そこでの認識のギャップというものをコミュニケーションによって埋め合わせようとする、そのような方向性だと言えるだろう。妖怪が見えることを互いにとっての前提にするのではなく、その見え方の差をコミュニケーションの前提にするのである。つまるところ、このような関係性のうちで問題になっているのは、前近代的なネットワークであるよりもむしろ、近代的なコミュニケーションの可能性なのである。こうしたコミュニケーションのテーマは、ここ最近のサブカルチャーの中心的なテーマであると言えるし、その点では、この『夏目友人帳』という作品も、間違いなく現代的な作品であるわけだが、そうした現代性を提示するにあたって、時計の針を少し戻した場所を舞台にしているところが興味深いところである。


 そういう意味では、『夏目友人帳』で描かれている世界というものを、都市と対立する田舎として、単なる場所の問題として捉えるべきではないだろう。ここで問題となっているのはやはり時間であり、失われた故郷が問題となっているのである。『夏目』の世界が故郷そのものなのではなく、その世界においてすら、故郷は失われている(ダムに沈んだ村が象徴しているように)。『夏目』の世界とは、それゆえ、現代と故郷との中間にあるような世界であり、まさにそのような中間の時間に戻ることによって見えてくる関係性というものがある、ということが強調されているのである。


 このような細やかな関係性というものを的確に捉えている点で、やはり、この『夏目友人帳』という作品は、注目に値する作品だと言える。この作品は、まさに、コミュニケーションの再構築という現代的な課題を考えるにあたって、どのようなことを前提として踏まえておかなければならないのかということをはっきりと教えてくれているのである。親だったらこうしなければならないとか、友人だったらこうしなければならないとか、そのような自明性が薄らいできた現代において、昔行なわれてきたことを単純に繰り返すだけだとしても、そこで繰り返されるものの意味合いというものを改めてしっかりと把握し直すべきだろう。そうした反復性というところでも、この『夏目』という作品は、祖母の夏目レイコの生を辿り直すという形で問題が提起されているのが非常に面白い。第二シリーズもこうした点に注目して見ていきたいと思っている。