アニメ『キャシャーン Sins』の現代性――『スカイ・クロラ』とも絡めて

 アニメ『キャシャーン Sins』を最後まで見たので、感想を書いてみたい。


 アニメのリメイク作品というものは無数にあるが、それらは概ね、失敗する傾向にあるように思う(もちろん、いくつかの例外はあるが)。というのは、そうしたリメイク作品の多くは、アニメ作品をそれ単体で、幾分か現代的な装いの下に、作り直しているにすぎないものがほとんどだからである。


 作品というものは、それ単独で自律しているわけでは決してなく、その作品が成立するための文脈というものを必要とする。昔人気があった作品が、現在において必ずしも同様の人気を獲得できないのは、その作品が古くなったというよりも、文脈が変わったからである(むしろ、こうした文脈の変化が「古い」とか「新しい」という言葉で問題になっていることだろう)。従って、文脈を無視して、単に過去の物語を繰り返しているだけのリメイク作品が面白くないのは当然のことである。


 では、今回の『キャシャーン』のリメイクはどうだろうか? 『Sins』は、はっきり言って、オリジナルの『キャシャーン』とは、まったく異なる作品だと言える。従って、オリジナルを単にリニューアルしたのではないという点では、当時の文脈と現在の文脈との違いを実にはっきり意識して作られていると言える。そういう意味では、この作品は、それなりに成功していると言えるかも知れないが、しかし、『キャシャーン』のリメイクとして成功しているかどうかは問題である。というのは、別に「キャシャーン」という枠組で、この作品が作られる必然性はなかったのではないか、ということを思わせるところがあるからである。言うなれば、この『キャシャーン Sins』は、「キャシャーン」の名を騙ったまったく別の新しい作品という気がするのだ。


 オリジナルの『キャシャーン』で描かれていたのは、ロボットと人間との闘争であり、そこでテーマになっていたこととは、科学のはらむ矛盾といったものである。つまり、科学技術の進歩は、人間に多大の恩恵をもたらすが、しかし、その反面、人間に多くの悪影響を与えることもある。科学のもたらす便利さが人間にとって本質的な何かを破壊することがありうるのだ。そうしたテーマは、子供向けのSF作品においては、典型的なテーマだったと言えるだろう。ロボット軍団と闘うために自らの身体を改造したキャシャーンという存在自体が、そのような科学の矛盾を象徴していた存在だったと言える(科学の力によってもはや人間ではなくなった非人間としてのキャシャーン)。


 こうしたテーマ設定は、今日においても注目すべきところは多々あるだろうが、それをロボットと人間との闘争として描いても、リアリティのある作品になるかどうかは分からない。そうした点で、今日の文脈というものをしっかりと抑えておく必要があるだろうが、今回の『Sins』には、そうした科学の進歩という問題設定は、まったく見出せない。この作品に見出されるテーマとは、人間にとっての生と死の問題、世紀末的な雰囲気の中で生きがいを失った人々の頽廃的な生の問題である。


 『Sins』には、人間も出てくるが、登場するほとんどのキャラクターはロボットである。しかし、それらのロボットは、死を運命づけられたロボットという点で、人間化したロボットだと言えるだろう。つまり、これらのロボットたちはもはや人間なのである。死に捕われ、生を見失った人間たち。そうした人間たちが再び生き生きとしてた生を取り戻すことができるのだろうか、というようなことがこの作品のテーマとして打ち出されているわけである。


 これは、確かに、一面では、現代的なテーマだと言えるだろう。しかし、それが果たして、どれほど今日的なテーマかと言われると、やや疑問に思うところもある。このことは、押井守のアニメ『スカイ・クロラ』についても言えることであるが、何の生きがいもなく、退屈な日々の生活を無為にすごしている人々というテーマ設定が、果たして、現代という時代の実相を見事にえぐり出しているかと言えば、それはかなり疑問であるように思える。とりわけ、押井は、そうした問題が現代の若者の問題なのだということをテレビ番組などで言っていたが、そのような認識は正しい認識なのだろうか。


 そんなふうに僕が疑問に思うのは、現代という時代が不況の時代であり、格差や貧困の問題が様々に提起されているからである。人々は、退屈な日常生活に苦しむ以前に、平凡な日常生活を送ることそれ自体にまずは四苦八苦しているのではないだろうか。もちろん、みんながみんな生活に苦しんでいるわけではないだろうし、日々の生活に退屈している人もいることだろう。しかしながら、退屈な日常生活という観点は、やはり、少し前の時代認識という気がして、現代は、そうした認識よりも、一歩も二歩も先に進んでいるのではないか、という気がするのだ。


 こうしたことは、現在のアニメ作品の傾向というものを概観したときにも言えることでもある。世紀末的で頽廃的な雰囲気というものは、もうすでに、一時代前の雰囲気なのではないだろうか。現代の認識は、もう少し先に進んでいて、何かもっとポジティヴなものを提出しようとしているのではないか。『Sins』の最終回に見出されるのは、われわれはやっとのこと出発点に立ったというような認識であるように思えるのだが、もうすでに、時代は、そうした出発点から前に向かって歩き出しているのではないだろうか。


 『Sins』で提出された結論というものは、つまるところ、こういうものだろう。われわれが生き生きとした生を送ることができるのは、われわれの存在が有限なもの、つまり、死を抱えているからに他ならない。そうした生の有限性を自覚することによって、われわれは、日々の生活を充実したものに、価値のあるものにしていくことができるのだ、と。しかし、現代の問題というのは、もっと深刻であるように思える。現代を生きる人の多くが生気を失っていて、ただ何となく生きている人が多い、というような認識は間違っていないとしても、では、死を意識すれば、つまり、自分自身の生の有限性というものを意識すれば、この生を充実したものにできるかと言えば、とてもそうは思えないのである。


 僕が思うに、現代人が生き生きとした生を送ることができないのは、個々人の生から固有性というものが剥奪されているからである。つまり、私だけの存在という生の希少さのようなものがまったく見出せないというところが問題であるように思える。こんな状態であるのだから、自分自身の生の有限性など感じることは難しいであるだろう。自分と同じような人間は他に無数にいて、そうした他人と自分との価値は同じものだとすれば、この自分だけの生に大した意味などないのではないかというふうに思うようになるのは当然だと言える。こうした点では、『Sins』よりも『スカイ・クロラ』のほうが、交換可能な生というものを描いていた点で、現代人の生の実相に肉迫していたと言えそうである。


 だが、『スカイ・クロラ』も、結局のところは、死を意識することで、生の固有性を獲得しようという方向性に向かっていったように思える(しかし、それと同時に、そうした試みの空しさも描いていたと言えるが)。この点で、『Sins』において、母性的な存在であるルナを最後にあえて殺さなかったのは、納得できる選択だと言える。『Sins』に出てくるルナは、ロボットたちに永遠の生を与える存在なのだが、そうした母性的な存在を殺すに殺せなかったところに、現代的な問題の困難さを見て取れるように思える。永遠の生を手に入れたとしても、そこに立ち現われるのは退屈な日々の生活という名の頽廃だけである。しかし、逆に死を運命づけられたとしても、自己の固有性を見失い、生きがいというものを見失ってしまう可能性というものも常に存在する。そうした点では、母性的な存在に接近できる可能性(永遠の生を獲得できる可能性)が、たとえ一抹の幻想にすぎないとしても、人々に生きがいをもたらすものであるとするならば、そうした幻想を無下に否定することはできないというのは、実に慎重な判断だと言える。


 こうした点で、『Sins』においては、何が最も良い選択かという結論は明確には出されていないように思える。多様な生を描くことによって、いくつかの可能性を示唆しているだけである。しかしながら、リューズやオージたちの穏やかな日常生活というものが最後に肯定的に描かれているとすれば、同種の日常系作品というものは現在無数にあると言える。従って、このような方向性(日常生活の小さな幸せの重視)というものもすでにひとつの典型となっていて、それが可能性のある方向性だとしても、十分に納得できる解決であるとは思えない(そうした小さな幸せを獲得できない人間はどうすればいいのかという問題がある)。『CLANNAD』が二重三重に工夫をこらして、個人の生というものを何とかして救い出そうとしているのを見ていると、悲観的な結論を導き出すのは容易であるが、何かポジティヴなものを打ち出すのは非常に困難な現状というものがここにはあるように思える。


 最後に、『Sins』のエンターテインメント性というところについてちょっとだけ言っておけば、やはり、この作品はそうした入口に対する配慮が決定的に欠けていると言えるだろう。僕としては、この『Sins』がオリジナルの『キャシャーン』の単なる焼き直し作品にならなくて非常に良かったと思っているのだが、しかしながら、オリジナルにあったエンターテインメイン性がまったくと言っていいほどなくなってしまったのは残念だった。『Sins』においてもキャシャーンは毎回誰かと闘うわけであるが、これほど頽廃的な雰囲気が漂う中でなぜキャシャーンはあれほどまでに誰かと闘わなければならないのかという、戦闘描写の必然性に欠けるところがあるように思えた(闘うことに生きる価値を見出していたディオのような存在は別として)。個人的には、アニメーション総体のクオリティも高く、非常に地味ではあるが興味深いテーマを描いたこの作品を高く評価したいところなのだが、一部のアニメファンしかこの作品を見ていないのではないかと思えてしまうところがあるのがとても残念なところだった。