アニメ『とらドラ!』における家族の問題――『CLANNAD』とも比較して

 アニメの『とらドラ!』の最終回を見た。今クールは、『CLANNAD AFTER STORY』という、『とらドラ!』とテーマ設定のところでいろいろと重なる作品があったので、『とらドラ!』を見ているときでも、『CLANNAD』とどう違うのかといったことをいろいろと考えながら見ていることが多かった。その点について少し書いてみたい。


 『とらドラ!』も『CLANNAD』も家族を問題にしている作品であると、ひとまず、言うことはできる。しかしながら、ここで問題となっている家族というのは、家族というものの自明性が失われた後の家族だろう。つまり、家族という言葉がいったい何を意味するのかよく分からなくなった、そのような地点から、これらの作品が、再び家族というものを捉え直そうとしているように思えるのである。


 『とらドラ!』と『CLANNAD』との共通点は、恋愛関係が家族を作ることと密接に結びついているところである。このことは、例えば『ロミオとジュリエット』に代表されるような、恋愛と家族とが対立するような物語とは対照的である。旧来の物語にとって、家族(家柄や身分の問題)は恋愛にとっての障害として立ち現われていたが、今日の物語においては恋愛の問題が家族の再構築の問題へと直接に繋がるところがあるのだ。


 その点が、まず、僕が『CLANNAD』に驚いたところだった。高校生活というユートピア世界での恋愛物語という枠組から出発して、『CLANNAD』は、主人公が父親になるというところまで物語が展開していく。高校生活のその後というこの「アフター」という観念が『CLANNAD』の基調をなしていると言えるだろう。つまり、人生はどこまでも続いていくのであり、生きている限り、物語は続く。いや、もっと正確に言えば、人生には物語などないと言える。『CLANNAD』においては、まず高校生活の内部で家族の問題が立てられていたが(とりわけ朋也とその父との対立)、そこで提出された問題の解決が、高校生活の後になって解決されるという展開がある。恋愛関係の「アフター」が家族関係の構築に繋がるという、このような視点の広さが単純な驚きだった。


 このような『CLANNAD』の「アフター」という観点から見ると、『とらドラ!』は、依然として、旧来の高校生活の物語のうちに留まっているように見える。しかしながら、恋愛関係と家族関係を近づけて考えようとしているところは、『CLANNAD』と通じるところがあるように思える。さらに言えば、『とらドラ!』においては、恋愛関係が家族関係と対立する側面があるところもしっかりと描いていた。『とらドラ!』においては、竜児が大河の父親代わりになっていたところがあったわけだが、竜児がそんなふうに父親のポジションに留まる限り、大河との恋愛関係を成就することはできなかった。つまり、竜児は一度、家族関係を破壊させる必要があったのである。


 ここで取り扱われている家族関係の問題をもっと推し広げれば、それは、具体的な人間関係の中で、ある役割を担うことの両義性の問題だと言える。具体的な人間関係の中で、ある特定のポジションを担うことは、その人に居場所と安定感を与えることであるが、同時に、その人をそうした役割のうちに氷づけにしてしまうところがある。『とらドラ!』においては、自分が他人からどう見えているのかというところと他人からどう見られたいかというところとの乖離が、極めて的確に描かれていたと言える。個々の登場人物は、まさに、アニメのキャラクターに他ならないわけだが、そうしたキャラクターという枠組を時に抜け出して、感情を暴発させる場面が多々あったのが非常に面白いところだった。


 家族の問題についてもう少し言えば、これらの作品から透けてみるのは、現代において問題になっているのは、家族そのものというよりも、家族のイメージではないのか、ということである。血の繋がった家族がどのような関係を築いていくのかということだけが問題になっているのではなく、家族という言葉から漠然とイメージされるものが問題になっているのではないだろうか。そして、おそらく、そこでイメージされるようなものが、現代においては、端的に不在なのだろう。現代において失われた家族像のようなものが、おそらく、高須家や古河家には辛うじて見出されるのだろう(ついでに『みなみけ』にも見出されるのかも知れない)。


 それゆえに、ここで家族が問題となっているとしても、この言葉が取り扱う領域は非常に広いものであり、非常に多くのものが問題になっていると言える。しかしながら、『とらドラ!』においても『CLANNAD』においても、家族という言葉によって抑えられている最も重要なポイントは同じであるように思える。それは、あなたのことをいつも見ている存在がいる、というものである。『とらドラ!』においては、サンタクロースのエピソードが秀逸だったが、まさに、サンタクロースの存在というのは、実際にいつもそばにいなくても、あなたのことをいつも見ていてくれる存在として想定されているのである(大河にとってのサンタは竜児だったわけだが)。


 このような視点は、根源的に考えれば、超越者の視点だと言えるだろうし、それは、宗教が取り扱う領野だとも言えるだろう。いずれにしても、この視点というのは、世界というものが決して混沌としたものではなく、何らかの法則を持っているということを保証する視点だと言える。『CLANNAD』においては、この視点を「街」という言葉で表現していた。この「街」という表現は、「神」などという超越者を直接に指し示す言葉でなく、この世界に内在しているもので、なおかつ、超越者の役割を十全に担うものというギリギリの選択の上で決定された表現だったように思う。


 これに対して、『とらドラ!』には、このような視点を体現するような超越者は出てこない。ただ、その役割を、様々な人間が、入れ替わり立ち替り、担っていくだけである。そうした点で、重要なのは、そのような超越者の役割を具体的な誰かが十全に担うことなど絶対にできはしない、ということだろう。誰かのことをいつもずっと見続けることなどできないだろうし、そんなふうに誰かを見続けている者自身をいったい誰が見ているのか、という問題が出てくるだろう。そうした点で、恋愛のパートナーであっても、親であっても、部分的にはそのような役割を担うことはできるだろうが、そうした役割を完全には担い切れない弱さを持っているということを、この『とらドラ!』という作品はしっかりと描いていたように思う。


 大河の父はダメな父として描かれていたが、しかし、それでは、どのような父が理想的なのだろうか? 『とらドラ!』においては、このことについての回答が明確には出されていなかったが、僕としては、理想的な父などいない、というのがこの作品の回答ではなかったかと思う。最終回において、竜児や大河が発見したのは、自分たちの母親もまたひとりの子供でしかないこと、つまり、彼女たちもまた、自分のことをいつまでも見ていてくれる存在を必要としている弱い人間でしかなかったことである。そうした弱さを押し隠して、親は親として、虚勢を張るべきだ、というような考えもあることだろう。しかしながら、親が親として成立するための土台が崩壊しているのではないかと思われる現代にあっては、親がひとりの人間でしかないことなど自明であるだろう。従って、むしろ問題になってくるのは、親の、広くは他人の、そのような弱さとどのように向きあえばいいのか、ということである。竜児や大河の親たちだけでなく、彼らの周囲にいる友人たちも、それぞれ弱さを持っていながらも、時には、そうした弱さを押し隠して、誰かを励ましたり助言を与えてくれるような存在になったりもする。逆に、頼りがいのあるように見えた人が、自らの弱さを見せる時もある。そのような反復が、アニメ『とらドラ!』の見所のひとつだったと言える。


 結論というわけではないが、僕は、『CLANNAD』がひとつの到達点であるのに対し、『とらドラ!』は新しい出発点を印づける作品なのではないかという気がしている。というのは、まず『CLANNAD』について言えば、この作品が、『Kanon』と『AIR』を経て、高校生活の「アフター」というものを描いているからである。つまり、そこには、何か集大成的なところがあるのだ。これに対して、『とらドラ!』は、確かにこれまで作られてきた様々な作品の文脈に基づいて作られたパッチワーク的なところもあるが、この先、この作品からどのような文脈が紡ぎ出されるのか、よく分からないところもある(とりわけ、今後キャラクターと物語とがどのような関係を取り結んでいくのか、よく分からないところがある)。後々になって、この作品が、何かの先鞭をつけた先駆的な作品と言われかねないところがあるのではないかという気がするのだ。このことは、これからどんな作品が生まれてくるのかという後続次第のところがあるが、半年後には誰もこの作品のことを話題にしないなどということにはならず、この作品が何かの可能性を開いてくれればいいと思う。


 何にしても、『CLANNAD』も『とらドラ!』も、人間関係の非常に細やかなところを描き出しているのが非常に良かった。キャラクターが機能的な役割に留まることなく肉声を持ち始めると、物語の進行にとっては障害となる場合もあるだろうが、これら両作品とも、人間関係の描写と物語の進行とを非常に上手く調整していたように思う。単純に見ていて面白かった。