固有性も必然性もない世界――アニメ『らぶドル』が提起する問題

 アニメ『ツバサ・クロニクル』の第二期を見ていて気になった台詞がある。それは、この世界とこの世界とは別の世界にいる人物が同一の魂を持っている、というような台詞である。この作品では、複数の世界が提示され、それらの世界には同じ顔と同じ名前を持っている人物が登場するわけだが、さらに、そこで、これらの人物が「同じ魂」を持っているのだと指摘することは、これらの人物たちが同じ顔と名前を持っていることが単なる偶然ではないことを示している。そこで強調されていることは、これらの人物は異なる人物ではなく同じ人物だ、ということである。しかし、もちろん、世界が異なっているわけだから、まったく同じ人物であるわけではないだろう。いったい、何が異なっていて、何が同じだと言えるのだろうか?


 そもそも、事態を複雑にしているのは、異なる複数の世界があるという設定である。世界というのは、ひとつの全体のことである。従って、複数の世界があるということは、語義矛盾だと言える。それゆえ、ここでの矛盾を解決するためには、世界よりも大きな領域に複数の世界が平行して存在している、というようなイメージを覆す必要がある。複数の世界は存在せず、世界はひとつだけである。では、そこにある複数性とは、いったい、何なのか?


 ひとつの解決は、そこでの複数性を、世界の可能性についての複数性と考えることである。つまり、アクチュアルに立ち現われる世界はひとつだけだが、潜在的な可能性としては、世界は複数の相貌を持つと考えるのである。それゆえ、登場人物の複数性は、ある意味、錯覚だと言えるだろう。同じ名前と同じ顔を持つ人物はひとりしか存在しない。そこに、複数の人物がいるように見えるのは、(複数の世界を旅する主人公たちの)超越的な視点がそこに導入されているからである。


 世界がひとつの全体であるのなら、世界の外部というものは存在しないはずである。しかし、『ツバサ・クロニクル』では、主要な登場人物たちが、複数の可能世界を行き交うことによって、超越的な視点が導入され、結果、世界の外部というものが描かれてしまっている。もし、登場人物が世界に内在したまま、可能世界を行き交ったとすれば、その登場人物は、自分が世界を移動したことにまったく気がつかないはずである。その人物は、世界の外部には出ていないのだから、世界全体が変化したとしても、その変化に気がつくことは決してできないだろう。


 仮に例外がありうるとすれば、それは、魂というものをどこに位置づけるかということによる。つまり、魂というものを超越的な実体として考えるのであれば、たとえ世界全体が変化したとしても、魂の同一性が揺らぐことはないだろう。この魂に何らかの具体的な内容をつめることはできないだろう。この魂は、ひとつの場所として考えることができるものである。世界全体が変化しても、「私」が「私」であることを保証してくれるもの。「私」が「私」のことを忘れずに帰って来れる場所。それが魂ではないだろうか?


 いわゆるセカイ系作品が好んで主張したがることも、そうしたことだと言える。つまり、(『機動戦士ガンダム』のアムロのように)帰って来られる場所があるんだ、ということである。『ツバサ・クロニクル』が確認したいことも、おそらく、そうしたことなのだろう。つまり、私はいつも私であり、あなたはいつもあなたである、と。


 だが、『らぶドル〜Lovely Idol〜』のようなアニメを見ていると、そうしたこととはまったく逆のことを考えてみたくなる。つまり、私は私でなくてもいいし、あなたはあなたでなくてもいい。私が私であることの必然性はないし、あなたがあなたであることの必然性もない。しかし、それでも、ある種の同一性は支えられているのである、ということがこの『らぶドル』という作品で提示されていることではないだろうか?


 アニメ『らぶドル』には、非常に多くの女性キャラクターが登場するが、これらのキャラクターの顕著な特徴とは、どのキャラクターもみんな似たり寄ったりであるというところにある。主要キャラクターたちは、「らぶドル」というアイドルグループの第三期メンバーなのだが、この三期メンバーと一期・二期のメンバーたちとの差異は不明確だと言っていい。なぜ、このアニメでは、三期メンバーたちが主人公なのか、ということの理由が決定的に欠けている。「三」という数字に特権的な意味があるようには思えず、それは「四」とか「五」という数字と代替可能なように見える。


 もちろん、一期メンバーを主人公にするか、三期メンバーを主人公にするかでは、ストーリーが大幅に違ってくるだろう。しかし、僕がここで問題にしたいのはそういうことではなく、何か特権的な、代替不可能な出来事が起こりうるかどうか、ということにある。アニメ『らぶドル』を見ることによって立ち現われてくるものとは、無限に続くかとも思われる反復であり、すでに決定的な出来事は起こっていて、これからは、その出来事が無限に繰り返されるだけである、という観念を抱かせるのだ。


 登場人物たちが行なうことは、すでに誰かがやったことであり、今後またそれは誰かが行なうことでもある。別段、その登場人物がそのことを行なう必要はなく、別の登場人物がそのことを行なってもよかった。主人公のマネージャーは、らぶドルのメンバーたちから愛されるわけだが、この愛されるという出来事も、無限に繰り返される出来事という気がするのである。


 登場キャラクターの固有性の剥奪。そのことを端的に示すエピソードが、アニメの最初のほうで描かれていた榊瑞樹(さかき・みずき)のらぶドル加入の話ではないだろうか? この登場人物は、物語の当初、マネージャーのスカウトを断固として拒絶する人物として描かれていた。彼女は、アイドル活動を否定し、路上で歌い続ける。この場所は、このアニメにおいては、特殊な場所だったと言っていい。つまり、それは、らぶドルたちのアイドル活動を相対化する場所だったわけである。しかし、物語が展開し、榊瑞樹がらぶドルのメンバーになってしまうと、彼女にそれまで固有性を与えていた場所が消失して、他の無数にいるらぶドルたちの中に埋没してしまうことになる。らぶドルらぶドル以外という差異線が消され、登場人物たちはますます似てくることになるのである。


 いったい、彼女たちの同一性を支えているものとは何なのだろうか? それは、彼女たちが、理想的なアイドルの代理人として振る舞っている、ということにあるのではないだろうか? 「Lovely Idol」というのがその理想的なアイドルの場所の名前であり、彼女たちひとりひとりは、その代理人として活動しているのであって、もし何らかの理由で、彼女たちがその代理人の役目を担えなくなったとすれば、その代わりに別の誰かを新しく入れればいい、というぐらいの同一性であるだろう。


 こんなふうにして、『らぶドル』は、『ツバサ・クロニクル』に対して、ひとつの疑問を提示していると考えることができる。あなたがあなただけの中にしかないと思っているあなたの固有性は、実のところ、あなた固有のものでも何でもなく、誰もが持つことができる借り物の固有性ではないだろうか、と。


 別にそれを私がやる必要はない。私がここにいる必要はない。ここで問題になっていることは、必然性に関する問いだとも言えるだろう。『ツバサ・クロニクル』において提示されている必然性とは、私以外にそれをやる人はいない、あるいは、私とはそれをやる人のことだ、というものだろう。これに対して、『らぶドル』で提示されている必然性は、それをやる人が少なくとも六人は必要だ、というものである。誰かがそれをやる必要性はあるが、私がそれをやる必然性には欠けているのである。


 『らぶドル』のアニメでは、毎回のサブタイトルが「らぶドルですか?」のように疑問形で提示されているが、この疑問形の持つ意味とは何だろうか? それは、未知の答えを求める疑問というよりも、既知の答えを確認する疑問ではないだろうか? つまり、登場人物たちが毎回出会う出来事には、常に先行例があるのであり、出来事を体験する前に、その出来事を名指すことが可能なのである。それゆえ、この疑問形には、ある種の倦怠の響きが感じられないだろうか? 「〜ですか?」の「か」には、また同じことが繰り返されるのか、という詠嘆のニュアンスが感じられるのである。


 すべてはすでに決められており、新しい出来事は何も起こらない。こうした観念は、おそらく、ある種の運命論を呼び起こすことだろう。運命論の内実というものをもう少しよく考えてみる必要があるかも知れない。運命論にもいくつか種類があり、そこでは共通して必然性が問題になっているとしても、その問題のされ方には多様性があることだろう。この点に関しては、また別の機会に問題にすることにしたい。