魂の次元

 『機動戦士Zガンダム』のTV版を最後まで見終わった。劇場版も全部見たので、まとまった感想を書こうかとも思ったのだが、それほど気力がないので、部分的な感想をいくつか書いてみたい。
 まず、TV版の最終回に出てくる戦死した人たちの描写について。富野由悠季は、好んでそのような描写をするが、死んだ人間、とりわけ、男女のカップルが、半透明になって再会するというものがある。最も典型的なのは、『伝説巨神イデオン』のラストシーンであるが、今回『Zガンダム』の最終回を見ていて、あの描写を単純に「死後の世界」というふうに捉えるべきではない、ということを思った。つまり、あそこで描かれているものが魂であったとしても、いったい、そこでの魂とはどのようなものなのか、ということを考える必要があると思ったわけである。
 注目すべき台詞は、登場人物の誰かが言っていた「死というものにこだわらない」とか、そのような台詞である。つまり、ここで問題になっているのは、生か死かという二項対立以前の地平、生きているか死んでいるかということが決定的な意味をもたない地平ということである(あるいは、生きているときに自分が属しているポジションの外にある地平)。その点で、富野が描いている魂たちは、極めて観念的なものであり、それは、言ってみれば、時間や空間を超越した場所に位置づけられるようなものである(人間の生というものが、時間的空間的に、有限なものであるという意味で)。それゆえ、そこで描かれる再会というものは、時間的な契機(死があり、その後再会するというような)というよりも、一種の視点の変更であり、彼らは常にすでに出会っていたとも言えるのである。
 この点で、シロッコは、そのような根源的な次元に耳をふさいでいる人物として描かれていると言えるだろう。カミーユにはいろいろな人間の声が聞こえるのに対して、シロッコには聞こえない。この「声が聞こえる/聞こえない」という問題は、カツが死んだときにレコアにはその声が聞こえなかったという形で提示されてもいる。ここでの問題をニューサイエンス的な次元で、つまり、「われわれ人類は実はひとつの生命体の一部であり、根っこのところで繋がっているんだ」という次元で理解すべきではないだろう。ここでの問題は、われわれが常に制限を受けた存在であるという点にあるように思える。つまり、われわれは、自己規定をするために、何かを否定せざるをえない、ということである。この点で完全にオープンであることは不可能だろうが、そこでの自己規定に固執することもまた問題だと言えるだろう。
 これこそが「魂を重力に引かれる」ことの問題だと思われる。重力は、安定や方向性をもたらすという点で、まさに、われわれにひとつのアイデンティティを与えるものであるが、しかし、それは同時に、われわれを拘束する鎖ともなるのである。