「場所」という観点についての問題提起

 場所とアイデンティティの問題について、以前からこのブログで問題にしてきたが、それを今回から本格的に行なってみようと思う。


 「セカイ系」と呼ばれる作品群について問題にすることも、僕にとっては、場所とアイデンティティを問題にすることであった。セカイ系の場所というのは、究極的には、ひとつの心象風景に集約することができるかも知れない。例えば、『エヴァンゲリオン』の劇場版に出てきた公園などがそうした風景である。


 新海誠の作品の風景も、そんなふうに理解すべきかも知れない。『ほしのこえ』で語られる「携帯の電波の届く範囲」の世界とはどのような世界だろうか? それは、メールの送り手と受け手の間で共有される世界、「きみとぼく」の世界であるだろう。もちろん、そうした世界が彼らにとって、世界のすべてであるとは思っていないことだろう。その外部にも世界はあるだろうが、そうした世界が彼らにとって重要性をほとんど持っていないのである。


 また、『雲のむこう、約束の場所』における「約束の場所」というのも、「きみとぼく」によって共有される場所であることだろう。それは、『最終兵器彼女』における展望台と同じく、セカイ系カップルが再会するための場所、再会を約束された場所なのである。


 こうしたセカイ系の場所よりも、もう少し大きな場所というものも存在する。それは、「きみとぼく」の場所よりももう少し大きい「私たち」の場所である。ここですぐに問題になることは、「私たち」とはいったい誰なのかということである。その場所にいる人間がその場所を規定する、そのような場所がここでは問題である。


 ここでいう「場所」とは、客観的に存在している場所のことを指しているわけではない。つまり、物理的空間のことを指しているわけではない。そこでの場所とは、「私」が所属する人間関係のこと、つまり、そこにおいて、「私」が一定の位置を与えられているような人間関係のことである。


 ここで重要になってくるのが風景である。風景とは、言ってみれば、場所を象徴的に指し示すための標識のような役割を果たしていることだろう。この点で、風景についての問いを立てることができる。例えば、なぜ『かみちゅ!』においては昭和後期の尾道の風景が選ばれたのか? なぜ『ARIA』においてはテラフォーミングされた火星が舞台なのか? なぜ『蟲師』においては山村の風景が描かれるのか?


 『かみちゅ!』、『ARIA』、『蟲師』といった作品の名前を上げたのは偶然ではなく、まさに、こうした作品において問題になっていることを、これから明らかにしようと思っているわけである。そのアプローチの仕方として、場所と風景に対する問いは欠かせないだろうと思うわけである。


 まずは、地域共同体についての話から始めてみることにしよう。アニメを始めとした現在のサブカルチャー作品において、地域共同体が好んで描かれるのは、現在、そうしたものが次第に失われていっているからだと思われる。つまり、一種のノスタルジーによって、理想化された世界がそこでは描かれていると考えられるのである。


 『フタコイ オルタナティブ』や『吉永さん家のガーゴイル』において、地域の商店街というものは、大資本の脅威から守られなければならないものとして提示されているが、僕は、以前から、このような図式に疑問を持っていた。というのは、そうした作品において、地元の商店街が大資本に勝利するとしても、実際の現実社会においては、むしろ、それとは逆の現象が起こっているからである。


 だからこそ、ここでの問題を、一度、現実の社会問題からは切り離して、フィクションの世界において意味のある出来事というふうに考えてみる必要がある。つまり、そこで描かれていることを少し抽象化して考えてみれば、そこで問題になっていることとは、守らなければならない何かが脅威にさらされている、ということである。そして、そこで守らなければならないものがノスタルジーを喚起するとすれば、そうしたものとはすでに失われたものだと考えるべきだろう。つまり、こうしたアニメで上演されていることとは、失われたものが失われなかったかも知れないということ、すでに起こってしまったことの別の可能性ということである。


 出来事に関して、すでに起こってしまったか、まだ起こっていないか、という二分法だけで考えるべきではないだろう。われわれは、おそらく、もっと複雑な時間を生きている。おそらく、過去・現在・未来という直線的な時間の分節法とはまったく別の時間の分節法を考える必要がある。可能性というのは、そのような時間の別の分節法に関わる領域である。


 そもそも、そこですでに失われてしまったものとは何だろうか? まさに、それこそが問題である。いろいろな言葉でそれを言うことができるだろう。しかし、何が本質的なことであるのかを見極めることは非常に難しい。そもそも、いったい、何が問題になっているのか? その問題の核心をこれから探っていってみようと思っているのである。


 ここで中心的に問題にしようと思っている作品の名前を上げれば、それは、『めぞん一刻』である。そもそも、『めぞん一刻』に限らず、高橋留美子の作品は、どれも考察に値する作品だと思っている。高橋留美子の作品は、現在の非常に多くの作品に、ひとつの模範例を与えたと言えるだろう。そのスタイルを名指すことは難しいが、ここで場所という言葉を用いるのであれば、まさに、高橋作品では、多様な登場人物たちをその内に引き入れる小さな場所が問題になっていると言えるだろう。場所にはもちろん許容量があるだろうが、次々に出てくる登場人物たちのほとんど全員に、一定のポジションを与えるのがその場所の役割である。


 こうした場所の機能は、『吉永さん家のガーゴイル』において、まさに見出すことができるものである。御色町という地方の町には、ある種の敵対性を無化する力があるのだ。つまり、その町の治安を脅かす存在だったはずの敵が、いつの間にかに、その町の中のポジションを占めることになっているのである。外部の存在を内側に引き入れいること。まさに、そのような許容力こそが、今日においては失われたもののひとつであるだろう。


 しかしながら、ノスタルジーというのは、ひとつの罠だということは言っておくべきだろう。つまり、そこで失われているとされているものが本当に以前にあったかどうかは疑わしい場合がある。だからこそ、現実社会との関係はひとまず措いて、フィクションの水準だけでまずは考える必要があると思うのだ。


 『めぞん一刻』を中心的に論じると書いたが、しかし、『めぞん一刻』論をここで書きたいわけではない。むしろ、ここで対象にしようとしている作品は、ここ最近の作品である。ここ最近の作品を問題にするにあたって、『めぞん一刻』を参照することが非常に役立つのではないか、と思ったのである。


 いわゆる萌え系の作品というのも、このような場所という観点から見てみると、少し違ったふうに見えてくることだろう。いわゆる萌え属性という観点においてキャラクターを見ていく場合に見失われやすいものとは、キャラクター同士の関係である。関係というものがそこにあるならば、それぞれのキャラクターたちには、一定の役割が割り振られているということである。いったい、そこで、そのキャラクターは、どのような場所を占めているのか? そのように問うことによって、個々の作品が問題にしていることが明らかになってくると思われる。


 現代のサブカルチャー作品の鑑賞方法というものを考えたときに、ある作品を対象として鑑賞するというよりも、その作品が提示している世界に鑑賞者が没入するという形式が非常に一般的なものになっているのではないだろうか? このことは、現代美術が、昔のようなオブジェとしての作品よりも、インスタレーションという、鑑賞者がいる空間そのものをひとつの作品として作り出すという傾向の変化とどこか対応しているところがあるように思う。つまり、そこで重要なのは、鑑賞するという言葉で示されるものよりも、むしろ、体験するとか経験するという言葉で示されるもののほうであるだろう。だとすれば、なおさらに、場所という問題は無視できないものであるだろう。


 現代のアニメ作品において争点となっているものとは何か? この点について、これからじっくりと問題にしてみることにしたい。